Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 思い出 東京の「愛知県学生寮」

わたしは、懐旧の念に捕らわれる方ではない。昔の思い出は、いつも苦くわたしを刺し、何かをしていると紛れるのだが、頭に浮かぶ思い出は、いつも碌なものではないのを、自分ながら訝しく思うことがよくある。


わたしの人生の中で、一番ひどかったのは中学時代だが、これは書くに忍びないので、学生時代のことを、少し書いてみたい。


わたしは二浪(宅浪だった)しているが、なんとか奮起して勉強し、東京のM大学に入学できた。高校の担任の勧めで、学生寮を紹介され、当時は竹早寮(今では、名前が変わっています。)と言っていて、そこに入ったのだが、同学年に東大生が5人、早稲田が2人、慶応が2人、後、東工大、東京外語大、上智、学習院等々と錚々たる大学の人たちと一緒に寝起きし食事したりすることとなった。


同学年の東大生の中には、愛知県下の名門の進学校で、常にトップの位置を占め、「この高校の偏差値を一人で1点上げる男」と言われたほどの伝説を作った大変な俊才がいた。この人とは、今でも付き合いがあるが。


それは、ともかく、当時だから最初の新入生歓迎コンパが凄かった。毎年のように、急性アルコール中毒で、病院に担ぎ込まれる新入生が数名出るほどだった。


わたしは、その夜の夜中に吐いていて、病院に担ぎ込まれることはなかったが、幸い、寝相が悪かったので、窒息してはかなくなってしまうことはなかった。ただ、M大学では、あるクラブの新歓コンパで、実際、寝ている間に吐いて、窒息死してしまった新入生がいたものである。


林修君という人が、今、テレビで活躍しているが、彼はわたしの2年ほど、学生寮では後輩に当たる人である。先に言った、伝説を作った人と同じ高校の出身である。ただ、彼は卒寮していないので、寮の後輩とは呼べないかも知れないが。彼は、この寮の毎日のことを地獄だったと言っていたそうだが、3,4年生になればとても住み易くなったものである。


この林君については、よく会合を開く同学年の寮の友達に言われて、始めて気付いたのだが、わたしには、学生寮ではうっすらとしか記憶しかない。あの少し突き出た顎だけは、なんとか記憶が辿れるという具合である。


テレビで拝見していると、彼は単なるインテリに過ぎないのだろうかと思うことがあるのだが、そうでないことを願うばかりではある。


ただ、林君だけではなく、名門校揃いの寮であったから、みなさんドンドン活躍されていて、取り残されているのは、わたしを含め、若干名いるくらいである。


人生で、親友と呼べる友達ができるのは、学生時代と言うが、これは、その通りだとよく思う。


※ちなみに、愛知県学生寮は、当時、尾張と三河に分かれていました。今は、どうか分かりません。