エッセイ ある宗教家のこと
数年前のことだが、ある宗教的な人と偶然話す機会があった。宗教的とはいっても、わたしより年少の、どこから見ても平凡なサラリーマンという男性であった。
それで、その人は親鸞会に傾倒していたのだが、自分の生活をすべてなげうって、そこに所属し、信者を募っていた。
その人の言うには、自分が救われるということが自分にとって一番大きな問題だという。じつを言うとそこのところがわたしにはよく分からないところであった。
これはわたしの言い方になるが、色々な人生の局面で、救われるということが、人生の緊急課題になるようなことはなかった。たとえ、なったとしても、ある会に所属しようという気にはならなかったことは、自分の性格からよく知っている。
その人は歎異抄と教行信証については、誰にも引けを取らないほど読み込んでいるということだったが、わたしは自分の家の宗教についてさえそうした感情は持っていない人間だから、彼がそういう気持ちもよく解せなかった。
わたしにとって興味深かったのは、こうした若い人が、今、この人だけではなく、多くの現代人の心理傾向なのではないかという思いだった。その人は心理傾向という言葉を使えば、それだけで拒否反応を示しただろうが、わたしには、その生活をなげうってまで、ある宗教的な会に所属するということが、現代人の心理傾向に他ならないように思えるのである。現代人の不安な感情のいわば核とでもいうようなものを垣間見るような思いがした。
付け加えておくと、その人は阪大を卒業して、ある企業に勤めていた。当たり前なことだが、学歴も企業も、その人にどのような人生上の救済ももたらさなかった。
わたしが、明治期以来の新興宗教の系譜を、何故、今までいわば国家を論じる日蓮宗系の新興宗教が多かったかを説明してみると、きょとんとした顔をして見せた。その人には、自分の関心が国ではなく、自分個人であることはあまりにも当たり前なようであった。
現代の若い人の心は、そんなにも切迫しているのであろうか。
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