エッセイ 俳諧鑑賞 <高浜虚子>
去年今年貫く棒のごときもの 虚子
この虚子の句を、初めて読んだときの印象は鮮烈だった。たった十七文字で、どれだけのことが表現できるか、虚子のこの句は、そんな俳句の狭隘さをまるで感じさせないものであるばかりでなく、非常な予見性さえ持っているようにさえ、思われた。
まず、とても抽象性の高い句でありながら、受ける印象は、間然とするところが無く、句としての表現力は、溢れ出て来そうなほど漲っていると評して良いくらい、充実している。
それも、「去年今年」という季語の意味を、こんなに抽象的に扱った句は、この虚子の句が初めてで、こうした句を年賀の挨拶の句として、ぶっきら棒に発表したのは、いかにも虚子らしいという気がする。
それで、ブログでは、横書きになってしまうから、分かり辛いが、「去年今年」という漢字の字面そのものからも、一本通っている「棒」を、わたしは連想するものである。
大岡信さんは、この棒のことを想像すると、毛の生えている棒を思うと、どこかで書いていたが、「貫く棒のごときもの」ということばは、人に拠り、色々な棒を連想させるもので、さればこそ、名句と言って良いものなのだろうと思う。
思えば、虚子は、「これからの俳句はどうなるでしょうか?」と問われ、言下に「月並みに戻りますね。」と応えたそうであるが。現在の俳句の隆盛は、わたしの句も含めて、虚子のこのことば通りのように思える。
達人には、はっきりと、見えていたのだろうと思う。
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