エッセイ 論理もどき <名画の災難>
欧米では、環境保護団体を名乗る人々が、名画と言われる作品に、トマトジュースを掛けたりして、碌でもないことになっているようである。
彼等が主張しているのは、主に、地球温暖化に抗議するためということだが、異邦の出来事ながら、その論理のつぎはぎだらけの俗っぽさと幼稚さには、呆れ返ってしまう。
欧米というところは、また、レオナルド・ダヴィンチが制作した彫像を、粉々に破壊した地域でもある。こうした蛮行は、今に始まった事ではないのである。
どうも、欧米というところは、敬すべき人やものを敬するという事を、知らない国々である。それよりも、名画を台無しにして、自分が注目されることを好むほど、利己主義が蔓延しているところであるから、どうにもしようがない。
この事件などは、単に、自分たちはゴッホのようにはなれないという、ひがみ根性以上のものを語っていはしない。地球温暖化などという、雲を掴むような話は、ただの後付けの、いわば論理もどきである。
論理は、いくらでも、好きなように後付けできるのが、その主たる性質である。単なるこじ付けの論なのか、しっかりした批判にさらされても、大丈夫な論なのかの見極めは、いつも、必要なものである。
それに比べると、日本では、まずそうした事は起こらない。これは、喜ばしいことであると同時に、不思議な事と言って良いくらいである。
というのは、論理については、言わば、本当に論を成すということは、むずかしい事であって、物事には、論以前に大事ことがあると、知っている国民であるという事である。
だが、程度の差こそあれ、論がいたずらに浮遊するのは、どこの国でも、あることなので、たとえば、日本でも、一国の元総理を殺した、一人の殺人者の訳のわからぬ論理が、知らぬ間に、人々の同情を集め、野党は攻勢を強めている。バカげたことは、どの国でも変わらずに、起こっているということでもある。
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