Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 働くということ 13 <まとめ>

※以前の文章から、ずいぶん、時が経ってしまいましたが、思考を止めていたわけではありません。ある程度、まとまったかんがえとなった感触があったので、それを、ここに記述してみたいと思います。


ここで、わたしの最初の直感に立ち帰って、隠居と見巧者とを、何とか繋ぐ論を、展開できないかと探りたい思いに駆られている。


そうして、そこに、「働く人」を据えてみて、わたしの論が、何かを言ったことになるかを、検証してみたいようにおもう。


まず、隠居は、社会からまったく縁を切った者ではない。特に、横丁の隠居ともなれば、ある意味でバカにされながらも、世間の人々の世話役、相談役として活躍する道が開けている人である。


こうしたことを踏まえて、いわば、理想的な隠居像というものを、かんがえてみたい。


単なる、世話役や相談役という役柄を越えて、世間というものを広く見ることのできる、世間の見巧者、そこに居て、世間をじっと見ているというだけで、意味を成す、世間の理想的な観客としての隠居を、想像してみたい。


これは、中国の思想、主に老荘思想に多くその考え方を、提供して貰うということになるのだが。


その人が、そこに来たというだけで、その場の風紀が改まるというようなことが起こるという人格的作用を強調する思想である。


何も、そこまで行かなくとも、その隠居たる見巧者が、すぐ、そばに居て、じっとその周りの世間を見ているだけで、その世間が確かな意味を持つという、そういう人と言っていいかもしれない。


見巧者は、批評家や批判者ではない。良い演技をすればそれを褒め喝采し、演技者を的確に判断し、そうして、良い演技ができない演技者には、できるまでじっと見続ける人であり、もしくは、できなくとも、じっと見続ける人であって、ときには、叱咤することも辞さないが、あくまで、演技者を生かすように観る人である。


そうして、わたしはこの論を、こう持って行きたい。


この隠居たる見巧者が、世間で働く人々を、その最大の対象とするとなると、どうなるであろうかと。


わたしは、江戸時代の横丁の隠居の多くは、そうした役目を、知らず知らずのうちに、買って出た人と、かんがえたいのである。


じっさい、働く人が、その働きによってかがやくことは、稀なことと言って良い。江戸時代とて、そのことに変わりはなかったであろう。


と、ここに、横丁の隠居の存在があった。これは、働く人々にとっては、働くことの支点となるような頼もしい存在ではなかったろうか。そうである。隠居はすでに、以前は、働き手そのものとして、活動していたからである。


もちろん、本当に頼り甲斐のある隠居は、少なかったであろうが、そうした役割を、暗に担っていたということがなくて、あの横丁の隠居ブームは、説明が、困難であるように思えるのである。


これで、論は、かなり進んだように思える。わたしの陥った矛盾は、これで、すべて解消したとは言わないが、あるほどけを示し得たように思える。


ただ、資本主義経済下における、「働くということ」の意義は、尚、難題として提出されたままであるが、わたし自身としては、横丁の隠居が、もはや無理な話だとすれば、代替としての見巧者の復活が、その難題への返答としたいとおもう。


わたしのこの「働くということ」シリーズについての論を、どう判断するかについては、それこそ、現代の見巧者に判定してもらいたい気が、してならないところである。