Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 働くということ 9 <道、マイウェイ>

「働くということ」と「道」というものついて、相通ずるものがあるかということを、かんがえたいため、ここで、


道ということについての、欧米やイスラーム圏の人々の考え方のあらましや、その大略のところを、整理して、語って行ってみたい。


欧米の人々にとっての「道」とは、直に、聖書の神が指し示した道とかんがえて良い。彼らにとって、聖書とは、それほどに重い書物であり、それは正しく、神とともにある「道」である他はなく、それ以外の道は邪道であって、一歩間違えれば、邪教ともなる。


聖書は言う。神の指し示した道を歩くべきであると。神の道ではなく、自分の道を歩くことは、罪に他ならないとさえ言うのである。


わたしの読みが、間違っていないのなら、流行歌の「マイウェイ」は、聖書<キリスト教徒から見れば旧約聖書>に対する、ハッキリとしたプロテストに他ならない歌なのである。この「マイウェイ」には、「この歌は跪く人の歌ではない。」という一文が見える。これは、軽い信仰の否定である。


このことからも、明らかだと思うのだが、これは自我が拡大したと言って良い、近代自我によって、その拠り所を見出している歌であって、少し先回りをするが、日本人が「生まれながらの真心なるぞ、道にはありける」という言葉に、「道」を見出すような事情とは、大いに異なっているということである。この両者は、明らかに似て非なるものがある。


また、イスラームに目を転ずれば、イスラームが成立する以前の時代のことを、無道時代と、自戒の意味を込めて、振り返るのが、イスラームの人々の常であり、もう、その無道時代には戻ってはならないという痛切な思いをイスラームの人々は抱いているのである。


無道時代とは、部族間の無益な争いごとや、酒に溺れ、女遊びに明け暮れる日々のことであり、どこにも道を見出せず、生きている意味や価値など、まったくどこにもありはしないと思わざるを得ない時代のことである。


従って、イスラームの誕生に拠って、イスラームの人々には、初めて踏むべき道というものが敷かれたのであり、このことは実に大きな出来事に成らざるを得なかった。ムハンマドの出現は、その意味で決定的なことであったと、言って良いのである。