Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ ことばというもの <詩人に理念はいらない>

ことばは、その生きているところを捉えなくては、意味を成さないものである。したがって、生き物と同じように、それが生き生きとしているか、ほとんど死んだも同然であるかは、大事な点となる。


辞書などの言葉が、どうしてもこちらの胸に響いてこないのは、ほとんど言わば、休眠状態にさせられた言葉の集まりで、詩人による言葉ではないからである。その点、歳時記は、日本独特のものだが、読み物としてもこんなにおもしろい本はない。


例外としては、大言海に載っている下剋上の解がある。「これデモクラシーとも」という一文がある。侮蔑された言葉が、あたらしい意味を帯びて、息を吹き返している。大槻文彦という人が、詩人的な素質も備えていたことを、物語っている解である。


言葉は、一見、解体が容易であるように見えるが、その活殺は、とても繊細なものであることを、文章を書くような人は心得ておくべきであろう。


よく、仁を忠恕の徳としている解に出会うが、わたしは、これは受けられない。こうした学者好みの論理的な解釈にどんな意味があるだろうかと思ってしまう。「仁」を「忠」と「恕」とに分解しておいて、後は、それを合成させれば良いとは、おろかな論理学者のやり方ではないか。まるで、言葉が生きていない。


現在では、「仁」一語では、ほとんど意味を成さないまでに、この言葉は、痩せ細ってしまっているが、たとえば、「医は仁術」という言葉では、「仁」がしっかりと生きていて、その豊富な意味合いを告げている。忠恕などという解は、まったく当たっていない。そもそも、仁とは、天という言葉と同じく、本来、解など無用な言葉であるとも言えるのだ。また、「仁義」という言葉となると、反社会的勢力にさんざん乱用されたこともあって、現代では、ほとんど死んでしまった言葉となっている。ちなみに、仁義は、仁義礼知信孝悌忠の略語であって、仁義という熟語がある訳ではない。


それで、言葉の生き死にであるが、これは書いた当人の目ではなく、見巧者によって見られて、その判定を下されるのが、もっとも確実であろうと思う。古典は、もっとも多くの見巧者によって、見て見抜かれて来た代物であるから、ほぼ、間違いはないが、分かりにくいのは、近現代に書かれた文章である。しっかりした見巧者が欲しいところである。


ここで、注意を促しておきたいことがある。それは、言葉による表現は、とても強力なもので、少しも侮ることができないものだということ。また、自分は言葉を使っているだけだと信じてやまない人が多くいるが、じつは、言葉に使われてばかりいる人の方が、圧倒的に多いという事実である。一言にして言えば、われわれは、言葉に生かされているというのが、本当のところである。この認識は、踏み外さない方が良い。ことばは、とても普遍性の高いものでありながら、人間のこころの内部にも、また、外部にもその居場所を占め、さらに、それ自体の生命を持っているというじつに不思議な性格を持つ。ことばは、われわれに従属して生きているなどと思っていたら、大間違いである。


続けて言えば、それ自体で光っているような言葉には、特別な注意を要するもので、たとえば「理念」という言葉がある。これは、明治期以来の新語で、ドイツ語のideeの訳語だが、これは、プラトン由来のイデアに起源を持つ、ドイツ哲学によって磨かれてきたことばなのだが、現代の日本では、新語の特徴として語感が揺らいでいるにも関わらず、不思議なほど重要な場面で、顔を出したがり、積極的な意味を持つ言葉として定着しつつある。わたしとしては、少し不気味ささえ感じている言葉である。


それというのも、この語感のあいまいな理念という言葉に、振り回されている人がいかに多いかに驚くからである。企業理念、経営理念なら、まだ良いかもしれないが、政治理念、教育理念と広げて使われるようになると、いっそ使わない方が、賢明なようなことばであって、少し振り返ってものをかんがえれば、われわれはこの言葉を使っているのか、それとも使われているのかに過ぎないのかはっきりしてくると思う。


わたしのブログをご覧頂いている人には、先の記事や、また「理念と原理」などの理念という言葉を使った記事の弁明となってしまいそうだが、わたしがこの言葉の語感を敢えて逆手にとって使った理由も、理解して頂けると思うのだが。理念が、取り除けというものを許すことばかそうでないかは、じつは、使う人間の賢明な判断に委ねるしかない。だから、不用意に使うことは控えるべきで、誤って使われるのが常態であることの見本のような言葉なのである。


「原理」という言葉は、ずいぶん色褪せた。精神界に持ってくるには、やや不手際な言葉あったのがその理由だろうが、これは良い徴候として歓迎したい。理念の前は、古臭くなったこのことばが多用されたものである。だが、理念という言葉は、未だにそのメッキが剥がれていない。いつになったら、この言葉を正確に使うことができることだろうか。正確とは、理念もまた単なる符号に過ぎないと言えるくらいになるまでという意味である。付け加えて置くと、詩人という人種には、理念などという表面だけ輝いている言葉は、無用である。詩人は、平凡なまたかがやきを失った言葉にこそ、光を持たせるのが仕事だからである。


そうして、こうしたことばを生かして使うには、強い精神の諸力を必要とする。詩人は、夢ばかり見ている人では、つとまらない仕事なので、一編のかたちある詩をものにしようとすると、どれだけ精神力や体力を消耗するかは、じっさい自分でやってみると、得心が行くはずである。俳句や短歌のような形式が整っているものは、まだ、かたちは取りやすいが、自由詩や現代詩となるとそうは行かない。書いているうちから消えていくような定めを持つものであることが、嫌でも分かると思う。労多くして、得るところはほとんどない業の深い仕事である。しかも、詩で食うなどとは、とてもできない相談のものでもある。


それは、ともかく、先に言った見巧者は、単なる批評家ではなく、詩人の目も持っていることは言うまでもない。ボードレールは、「詩人は同時に批評家でなくてはならない」と言ったが、日本語には、見巧者というじつに上手い言葉があるのは、有り難いばかりである。わたしは、詩人は、また見巧者でなければならないと言いたいところである。


言葉の生き死には、時代の要請も大きく関わる。現代の外的環境は、詩人には少々過酷すぎるようなところがある。現代という時代は、批評ばかりが先に立つという、一種転倒した時代になっていて、その傾向を受けて、現代詩自身も批評化してしまい、対象となるようなものを壊してばかりいる。建築的で深みのある現代詩などまるで現れていない。現代は、いよいよ詩人という人種を必要としなくなっている時代であるのは、争えないようである。呪われた詩人とは、フランスの象徴派詩人を指しての言葉だが、現代詩人とは、じつに業の深い呪われた人種である。