Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 紙幣考<ドストエフスキーの貨幣感覚>改版

前に、このブログで一度触れたが、ドストエフスキーの「白痴」の中で、ナスターシャが大金の札束を燃やそうとする場面をよく見てみたい。紙幣が、金銀貨とは、まるで違ったものだということを象徴的に表現している箇所だと思えるのである。


バルザックの時代は金銀貨であり、それは、そのままで実質的な価値を持つ貨幣であった。けれども、紙幣は、その背後にある国もしくは共同体の信用がなくなれば、単なる紙切れとなる貨幣である。


ここに、一つの疑問が生じる。なにゆえ、人々、大きく言って人類、また資本主義経済は、金銀に換わる貨幣として、日用まったく底辺に置かれている、それも、ほとんどそれ自体価値を持たない紙を、わざわざ、貨幣として選び出したのかと。


ここには、大きな知恵が、隠されていると見て良いのではないだろうか。


というのも、形而上的な信用価値があってこそ、紙は、紙幣としてその実質を帯びる。だが、信用がなくなれば、それは単なる紙切れに過ぎなくなる。紙一重という言葉があるように、そこには、形而上的な観念を形而下的に保証する「紙切れ」という実態を、どうしても必要とするということである。


仮想通貨といえども、PC上に表される数字という、形而下を必要とする。仮想通貨は、その成り立ちを追っていくと、通貨交換のための利便性から生まれている。そうして、この通貨は、紙幣が持っていたような生臭さが、ずいぶん減殺されたものであることも付け加えておきたい。


現在、投資の対象とにまでなってしまっているが、この貨幣は、国がその危険性を厳重に警告している通り、背後に、国もしくは共同体としての形而上的な信用価値を持たない貨幣である。紙切れという、実質さえ奪われている。


大事が起こった場合、その形而上的な信用価値をどこにも持って行きようのない貨幣である。だからこそ、PC上では、演出して、金貨に似せたコインとして、流通しているのだが、その正体を曝せば、ネット上の善意のシステムによって、数学的に管理された(それもよく管理されているとは言い難い)数字に過ぎない。この善意という言葉に注意してほしい。
善意はそのまま、悪意へと変換しうる形而上的概念である。これは、どのように考えても、大きな落とし穴がある数字であるのは、目に見えているのではなかろうか。


もちろん、現在では、紙幣を財産として家に置いている家庭はあるまい。ほとんどの人が預貯金や株券などというかたちで、自分の財産を管理していることだろう。そうして、それらは国なり、共同体なりの信用において成り立っている貨幣であり、ネット社会の仮想通貨とは、明らかに性質を異にする。形而上的な信の裏付けがある貨幣である。


だが、話を元に戻そう。「白痴」の先に触れた箇所は、「白痴」の中でも、圧倒的な迫力を以って、読者に迫る場面で、「白痴」を読んだ人には、抜き難い印象を起こさずにはいない箇所である。


ナスターシャという特異な性格を持った女が、ガーニャという作者の言を借りれば、普通人に過ぎない男を、大金の紙幣を使って試みる場面である。ナスターシャは、その大金で、ガーニャの自分への愛を問おうとするのである。


ナスターシャは、その札束をすべて、燃え盛る暖炉に入れてから、ガーニャにこう告げる。「ガーニャ! あんた自分の手で、この札束を暖炉から取り出してごらん! 自分の手でよ! そしたら、この札束は全部あんたのものよ!」ガーニャは慄然として動けない。ここで挿話に、レーベジェフという、また作者によると、要するに何がなんだかよく訳が分からない男がしゃしゃり出て、ナスターシャに懇願する。
「わしに言ってくだせえ! お嬢様! わしに言ってくだされば、すぐさま、火の中から、取り出してお見せしますで!」
「お前は引っ込んでおいで! お前じゃない! お前が取っても、また、火の中にくべてやる! ガーニャ! あんたが取らなければ、灰になっちまうだけよ!」袋に包まれていた札束は、勢いよく燃え盛る。


ガーニャは卒倒して倒れる。


それを見てとった周囲の人たちは、急いで、札束を暖炉から掻き出す。小説では、包まれていた袋を燃やしただけで、札束は少し燃えただけで、無事だったと書かれている。


ほとんど、この世の地獄絵図に近い場面であるが、この物語がわれわれに教えるところは、じつに意味深長なように思える。


紙幣は、燃えれば灰となる、単なる紙切れであるか、それとも実質的な価値を帯びた貨幣であるかの間を、激しく揺れ動く。


金がそうであるように、この札束も、いわく因縁のある金に他ならないのだが、その因縁については、小説に任せて、ここではすべて省くことにしたい。


ここで、先の問いを問おう。燃やせば、そのまま灰となってしまう、それ自体ほとんど価値を持たない紙切れを、なにゆえ、人々、人類は貨幣として選んだのであるか。


そこに信用に値し、もしくは、重要、重大なことが書かれ、または描かれていれば、俄然、実質的な価値を帯び、しかも実態としては紙切れに過ぎないという、二律背反的な性質を、すでに、紙というものが持っているからに、他ならないことになるだろう。


形而上的に有意な信の観念を載せるのには、絶好の材質であって、しかも、日用の底辺に置かれているものの性質として、至極至便である。使用されれば、日本銀行券は、十年ほどの寿命を持ち、保存状態が良ければ、千年は保つ。しかも実態は、単なる紙切れに過ぎないが、紙という形而下的な実質をあくまでも持っている。


付け加えれば、金貨は流通過程で、擦り減ってしまい、その実質的な価値を損なうという欠点を持っていた。だが、紙幣はいかにくたびれていようと、手垢にまみれていようとその価値は保証されている。


国、及び巨大な共同体は貨幣として、紙幣を使用することを決して止めようとしない。思うに、紙幣とは、じつによく吟味された貨幣ではないかと感じるのである。


未だに、日本では、現金より信用のおける貨幣は見当たらない。日本人とは、なんとプラグマティックな国民であることだろうか。


現今、日本政府は、その言によれば、異次元の金融緩和策をとって金を供給しているが、デフレの状況は依然として収まらない。まるで、日本人全体が政府に代わって、貨幣を管理してしまっているように見えて仕方ない。