Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 統計というもの

社会というものを手っ取り早く、理解しようとする手段として、これほど、現代社会において、不思議なほど信頼を集め、いわば乱用されているものもないであろう。


こう問おう、社会とは何であるかをしっかりと知っている人間が果たしているだろうかと。古来、社会は怪物に例えられた。少しも古びたたとえではない。肝心なのは、社会が、現代のように、民主主義政体というものをとっていようが、社会は怪物的性質を、決して止めないということである。


どこを撫でて、どう機嫌を取ろうとしても、いけないと言って、どのように矯正しようとしても、相手は怪物であることに変わりはない。こうした、一種の明察というものがなければ、社会というものを相手にせざるを得ない政治家は、その職など勤まらないであろう。


それで、統計であるが、この怪物たる社会を数値化して、理解しようとする試みであることに間違いはなかろう。蓋然性を帯びた様々な数値は出されるだろうが、現代、その乱用ぶりを見ていると、単なる蓋然性というものでは、済ませられないようだ。これも、相手が怪物たる所以であろう。驚くほどの統計学者たちの恣意が罷り通ってしまっている。


よく、統計的手法というものが、取り沙汰される。統計のウソという言葉さえある。きちんとした統計的手法を使わなかったから、いい加減な結果が出たのだという。統計学の本には、一昔前は、社会が良くなるためならと、人々は進んで、自分の意見や情報を提供したものだが、現代では、個人情報の観点もあり、どうも相手が悪くなってきたというようなことが書かれている。そうではない。相手は元々悪いのである。科学の進歩による、人間世界の進歩を信じていた時代を思い、懐旧の情に耽っていては、学問などというものは成り立たない。


現代の統計学には、社会というものは、人間よりもたちが悪く、数値化を拒む怪物であるという観点が、まるで欠けているのではないか。統計学の一番の難点は、正直者がバカを見るという仕組みに出来上がっているところであろう。統計的手法という言葉にだまされない方がよい。人間が数値化を拒む以上に、社会という怪物はあらゆる手段を尽くして、数値化を拒むのである。


統計的手法というものが、いかに、いわば人間的な善意のみを当てにしている偏った手法であるかを、何故、現代の統計学は告白しないのだろうか。わたしには、それがいかにも不思議なことに思えるのである。人間は、常に善悪を併せ持っている。その集団となった社会については、尚更というものである。