エッセイ 「きれぎれ草」のこと・俳句
きれぎれの思いのままに年は暮れ
名前は誰だか、調べればすぐ分かるのだが、ずいぶん前に「きれぎれ」という小説を書いて、芥川賞をとった作家がおられる。わたしは根が無精だから、調べずに書いているのだが。
こう書いてきたというもの、ある文芸同人誌に属していた20年前ほどのとき、わたしは「きれぎれ草」という題をつけて、短文を綴っていた。このブログに載せた「きれぎれ草」も、その中の断片なのだが、これは、お察しの通り「徒然草」をもじったものである。
その文芸同人誌の会とは、また別の文芸同人誌の会での話だが(わたしは文芸同人誌を渡り歩いていた。)、先の「きれぎれ」という小説が出たとき、その会の読書会で取り上げられた。わたしはその会でも「きれぎれ草」の短文を書いていて、それと名前が被ったというのも、読書会で取り上げられた理由のひとつだった。
わたしは、その小説を読んで、「文学、特に小説上の自我意識もここまで、追い詰められたか」という感想と、題が被ったということで、「この人もわたしと同じような感覚を持っていたんですね」というようなことを言ったことを覚えている。
断って置きたいが、これは、どちらが先にこの言葉を思い付いたかというようなことは、問題にはならないだろうと思う。
その人はその人で、勝手にやっていくだろうし、わたしも勝手なことをここに書かせて頂く、そういうことでいいだろうと思っている。
ちなみに上掲の俳句は、20年ほど前に作ったものである。
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