Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ シェイクスピアとドストエフスキー <試論6>

先の記事で、リア王については、かなり短く済ませてしまったので、少し付け加えておきたい。


リアは、自らの愚かな振る舞いによって、王としての地位を追われ、権威も権力も財力も、そうした外形の諸力は、悉く剥ぎ取られ、狂気と正気の境さえさまよい、野にあって、ただの老人に過ぎなくなる。だが、劇の最後で、その裸形となった、まっさらで巨魁な人間性が浮き彫りにされ、人として偉大な姿のまま、コーディーリアの後を追うように、絶命するのである。


ほとんど、子どものように、甘い言葉を欲した駄々っ子のような人間に過ぎなかった心情の持ち主が、こうした偉大な心を表す。この鮮やかな転身ぶりは、同じくオセローでも見られる性質で、シェイクスピアの四大悲劇の特徴のひとつと見て良いものだと、思っている。


思うに、シェイクスピアでは、主人公はハムレットは王子、リアは王、オセローとマクベスは軍人と、つまり、すでに何者かであるのだが。ドストエフスキーでは、「罪と罰」のラスコーリニコフは貧しい大学生に過ぎず、「白痴」のムイシュキンは、まだ女も知らず、仕事もしていない、「悪霊」のスタヴローギンは知事の息子だが、何もせずに遊び呆けている、「カラマーゾフ」のミーチャだけが元軍人で何者かであり、イヴァンはようやく芽を出したばかりの作家で、アリョーシャは僧服は着ているが、要は、何者でもない。


ドストエフスキーの主要人物は、皆、二十代と若く、このように何者でもないということが主な要因になっているとも言えるが、それでも、それぞれの人物たちが、読者に迫って来るその力強さは、年齢の枠を突き破っているといえるので、ドストエフスキーの作家としての力量の確かさを表してもいるだろう。


<続く>