エッセイ 和牛の不思議
現在、一番上等な牛は、世界で公認されている和牛である。オーストラリアがWagyuの商標を取って世界に売り込んでいることでも知られる。ただ、世界の一般の人々には、Wagyuが日本由来の牛であることは、あまり知られていないようだが。
明治期になるまで、日本では牛を食う習慣はなかった。こんな滋養に富んだうまい食品が、すぐ近くにごろごろいたのに、また、どうしてだろう。
日本人の寿命が延びたのは、食の欧米化のせいとされているが、わたしは、この原因は、卵が廉価で普及したお陰と、抗生剤の発達もその一因だとにらんでいる。
日本人は経験知の豊かな国民である。牛が健康に適った食品であったなら、和牛を食わなかった理由が見つからない。牛車や農耕用の働き手として使われてはいたが。
当時の社会の最下層の人々が食べていたことは知られているが、彼らの健康状態を推し量る文献は見当たらないようだ。
どうして、また、精をつける食品が、牛ではなく、鰻だったのだろうか。不思議である。また、そこまで、牛を食うことを忌避する文化をあっさり捨ててしまったことも、同じように不思議である。
ある日本人は、自分の体よりも大きなものを食うことは、良くないと言っていたが、迷信めいていて、あまり、説得力のある意見とは思えなかった。それでは、鯨を食っていた文化はどうであるのかと思った。
なんとも、不思議に思えて仕方ない。まるでイスラームの豚のようである。明治期までであるが。
※この記事を書いた後で、仏教思想の浸透に拠る原因が、大きかったという説を知ったのであるが、肉食は、一休宗純も親鸞もしている。これは、社会の上層部や下層部も念頭に置いて、かんがえなければならないことだろうとも思った。
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