新約聖書には、イエスがその生前、弟子たちに対して「あなた方はわたしの弟子として、これからわたしの弟子になる人々の、その末席に座る者となる。」と、語る場面があったと、記憶している。 これは、弟子たちを蔑ろにした発言というものではなく、ヒエラルキー<階級的権威>というものを、引っ繰り返し、その立場を逆... 続きをみる
キリスト教のブログ記事
キリスト教(ムラゴンブログ全体)-
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ことばは、生き物であるから、時代とともに生き死にするものであるが。 啓蒙とは、一頃、いわゆる、人々の行動の主軸とさえなったものであるが、今となっては、まったく、見向きもされなくなった言葉に、堕した。 ヨーロッパは、キリスト教を各地に普及させるときに、この言葉を使った。キリスト教こそが、本当の宗教で... 続きをみる
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確か、アメリカだったと記憶しているが、サンタクロースは、居るか居ないかと、小さな女の子が真剣に、新聞社に投書した。その新聞社内では、アウトローであった男が、君の友達は間違っている、見えるものだけを信じてはならないと、真面目に答え、女の子は納得し、その新聞紙上に載った返答が、話題になったという逸話が... 続きをみる
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キリスト教は罪人のための イスラーム教は貧者のための 仏教は世捨て人のための 道教は隠者のための そして 儒教は世人のための だが、儒教は宗教ではない
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キリスト教について、あまり言われないネガティブな面がある。それは、キリスト教以前のヨーロッパの古代の歴史や伝統の息の根を、ほとんど途絶してしまったことである。 辛うじて生き残ったものに、古代ギリシア文化があるのだが。古代ギリシア文化と言っても、ギリシア文化と言えば、古代のそれがなければ始まらない。... 続きをみる
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カトリックに改心したヴェルレーヌの宗教的な秘儀というべきものを伝える名詩編です。訳者の河上徹太郎は小林秀雄の生涯を通した友人でした。河上はこの書を読み、カトリックに入信する決断をしたと言っています。詩中、ヴェルレーヌは、はげしく神を探し求めます。けれども、その彼の道は、神こそが、それを切り開いてき... 続きをみる
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日本近代の自然主義小説家正宗白鳥の最晩年の短篇集です。どの編も枯れ切った、宗教的な雰囲気さえ漂う名篇になっています。白鳥の文章は、味も素っ気もないもので、まるで活字そのものを読んでいるような気にさせられますが、そのために作品の純度は非常な高さに達するものがあります。白鳥は、若い頃キリスト教に入信し... 続きをみる
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武士道は、歴史的に見て、非常に発展性のある思想である。これは格別なことといって良く、世界的に見ても稀な思想と言って良いようである。 思想というものは、深くそれを考察するとき、原点に戻るのが本来である。キリスト教でもイスラーム教でも仏教でも儒教でもその原理は変わらない。言わば、最初にすべてが所与され... 続きをみる
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キリスト教の人格形成力にはたいへん力強いものがある。マザー・テレサの例を見ても分かる通り、往時の勢いは衰えたとはいえ、未だに、聖女を輩出する力を持っている。最近の例では、アメリカの前大統領のブッシュであろう。この劣等生の飲んだくれを超大国の大統領まで押し上げたのは、まさしくプロテスタントの人格形成... 続きをみる
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聖書には考えさせられる思考が多くあるが、その中でも、イエスが神の永遠性について言うとき、帰納的に考えているのが注意を引く。 神は、アブラハムの神であり、ヤコブの神であり、イサクの神であった。従って、神は同じ一人の神であり、また永遠であると。 確かに、神を考えるとすれば、人間の分際で、それをまったく... 続きをみる
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儒教の五徳でいけば、仁義礼知信と末端に位置する徳である。信は、それほど身近な普遍的な徳目であって、例えば、日常生活で、バスや電車に乗るとして、そのバスの運転手、電車の運転士を信頼していなければ、本当には乗れないはずなので、飛行機や船などは、なおさらそうであろう。スーパーで買う食べ物等、どれを取って... 続きをみる
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実存主義は、キリスト教または既存の宗教的な衣を脱いだとき、人々が抱く思想だと言われているが、わたしは異なった考えを持っているので、ここに書いてみたいと思う。 結論から先に言えば、むしろキリスト教こそ実存主義そのものだという考えである。思想において、何ものをも、前提としないという点では、東洋の方がむ... 続きをみる
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新約聖書のシモンは、洗礼を受けてペテロと名乗りますが、三度キリストを裏切ります。鶏鳴三度の有名な話ですが、遠藤はそのキリストを裏切らざるをえなかった弱い普通の人間であるペテロを思い、その地を訪れ、そのイエスを裏切ったと伝えられている場所に立ち、なんとも言えない深い安らぎを覚えたと言います。日本のカ... 続きをみる
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武は儒教の洗練を受けてその人格形成力を増したと言っていいが、武は侍という言葉が示す通り、君に仕えるのがその本分である。従って、その人格は表立って主張されることを嫌う。 君に仕えるという現実の仕事の意味合いに、儒教は強固な足場を提供したのだが、その中で、作り上げられた人格は少しも分かり易くはなら... 続きをみる
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自我形成 自我を形成するとは、周囲から自分が切り取られることである。自我は切り取られた傷口に沿って自分を形成していくものである 寒天からナイフで小さな立方体を切り取る。 要点は、その立方体の小片にではなく、切り取られたという、そのことにある。 そうして、再び周囲と新しい関係を築くこと。自我形成とは... 続きをみる
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※ほぼ、3カ月ほど中断しておりました。これからは、ぼちぼちUPしていきたいと思っています。<(_ _)> 理念は新語である。理念というものは厳密に扱われると、自分や他人を傷つけずには置かない両刃の剣となる。この理念というものは、キリスト教を代表とする、唯一神を奉ずる西洋諸国からもたらされた観念であ... 続きをみる
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芥川は、晩年のある時期を除いては、宗教的な考え方について秀れた見識を有していました。この作品では、布教のために近世日本にやって来た主人公のバテレンを通して、日本人の宗教の有り様を見事にとらえて見せています。短編小説ですから、論理的な説得力を持ったものではありませんが、日本的な宗教の微妙な勘所をたく... 続きをみる
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普通人の話をしよう。もし西洋の普通人と東洋または日本の普通人のどちらかを信用するかという話になったら、わたしは即座に後者を選ぶ。人が良いからである。 ルソーは「エミール」の中で、もし君が美しい豊かな農園を所有していたら、厳重な警備を怠ってはならない。近隣の誰かが、羨ましがってやって来て、必ず、(ル... 続きをみる
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バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲を聞き込んだ。 そうして、思ったことがあるのだが、そのことについて少しばかり書いてみたい。 アーチ型の橋を石組みで作るとき、アーチの下の部分をまず木組みで作り、その上に木組みに合わせて石を載せていく。その後に、木組みを取り除けば、しっかりした橋ができる。物理的に見... 続きをみる
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ニーチェ自身が、「わたしの哲学を学ぼうと思う者は、まず、この書から読むといい」と言ったニーチェ哲学への入門書です。巻頭言に「女が真理であったとしたらどうであろうか」という言葉が載っています。ニーチェにとって真理とは机上の論理ではありませんでした。常に人生や生活の直中で試みられ、生き続けなければなら... 続きをみる
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キリスト教では、先述の聖書を旧約聖書と呼んでいます。コーランも、拠り所となっているのは、聖書です。ムハンマドはイスラーム教をアブラハムの宗教だとさえ言っています。この新約聖書くらい輝かしい書物はないでしょう。古代中国ではキリスト教を景教と呼びました。「景」とは、光り輝くという意味です。イエス・キリ... 続きをみる
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内村鑑三は、明治期を代表するプロテスタントのキリスト教徒です。内村は日本史にも登場する「不敬事件」で当時の社会から指弾を受け、内村の家は投石され、妻はその心痛に耐えかね病死します。この書は、その独自の人生経験から生まれた、内村の処女作です。「艱難を受け、それを耐え忍ぶ者は、すでにして基督教徒である... 続きをみる
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著者の新渡戸稲造は、元五千円札の肖像になっていた人物です。新渡戸は明治期、国際的に活躍した日本を代表する人物のひとりです。日本の精神文化を海外に紹介することに尽力し、「武士道」はその活動の中から生まれた国際的な評価を得た書物です。 海外の人に向けて書かれたために、原文は英文になっています。「武士道... 続きをみる
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「タオ」とは、中国語で「道」ということです。人気者だが、ぐうたらなクマのプーさんこそ、本当の道を歩いているたぐいまれな存在だという意味です。著者のベンジャミン・ホフは、アメリカ人ですが、彼のように中国や日本などの東洋の思想に深い関心を抱く外国人が、最近、急速に増えています。キリスト教の弱体化がその... 続きをみる
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「カラマーゾフの兄弟」を高校時代の17歳の時に読み、圧倒的な衝撃を受けた。それまで、うつろな観念の集合体以上のものではなかった人間たちが、わたしの心のなかで突如としていきいきと躍動しはじめ、ひからびていた心臓に本当の血流が注ぎ込まれ、たくましく鼓動を打ちはじめた。いや、それでもまだ弱い比喩である。... 続きをみる