エッセイ きれぎれ草 118 <理念というもの>
欧米人は、論を積み上げて、感情を抑え、思想的建築を作る
日本人は、情理を兼ね備えて、思想を語る
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欧米流の理念が、一切、取り除けを許さないのは、その理由に拠る
その理念というものは、日本流であってしかるべきである
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平等、人権は、理念になり易い観念である
だから、フランスでは王権を廃してしまったと言える
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原理さえ、取り除けを要する言葉である
昔は、これに自由という言葉が、纏わり付いていたものである
なぜに、理念だけは、未だに、取り除けを一切許さないような、語感を持っているのだろうか
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経営理念とは、まだ、それでも、理解できる言葉である、資金がものを言うからであるが、
政治理念、教育理念という言葉となると、奇怪至極である
まだ、憲法理念という言葉がないだけ、有り難いくらいである
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言葉は言葉であって、いくら厳密に定義しようと、どのような言葉であっても、語感が揺らいでいるものである
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言葉に厳密な定義が必要となるのは、論争が必要となるときであって、それ以外ではない
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従って、プラトンは、人間には馬が作れないように、法律は作れないと言ったのである
政治論議に、本当の決着などないのである
言葉は、事物事象にピッタリとくっついているようなものではない
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事と、心と、言葉とは、互いに相照らすものなのである
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日本で、哲学という学問が未だに振るわないでいるのは、上記の理由にも拠る
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だが、日本語は、諸外国語に比べると、よりよく厳密にものが言え、語感の揺らぎが少ない言語のように見える、その上に、ニュアンスが豊かである
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その代わり、時代による、言語の変化ははげしい言語とも言えるという不思議な性格を持っているようである、その点で、改憲は必至であろう
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