バルザック/ドストエフスキーの経済感覚
バルザックでは、金貨が活躍する。バルザック自身がありとあらゆる事業に手を出しては失敗し、金に振り回され続けた作家だった。
「ウジェニー・グランデ」で、ウジェニーの父の守銭奴のグランデが、娘に譲ったはずの金貨をいとおしそうにじっと見つめる場面には、凄惨な迫力がある。
「絶対の探求」で、バルタザールの娘が、思わず金貨を弄び(金に困ったことのない人間の通弊であるが、この娘はちゃんとお金の有り難さを知っている娘である。)、それを床に落としてしまい、バルタザールがその音を耳ざとく聞きつけて、それをわたしにゆずらないならと、自殺を企てて、とうとうまきあげられてしまう場面は、金貨が持っていた実質的な価値が、ものの見事に表現されている。
ドストエフスキーでは、金は紙幣となる。
カラマーゾフの兄弟を読んだことのある人は、三千ルーブルの虹色紙幣が、固定観念のように頭の中に居座ってくる感触を覚えていることだろう。まるで、この小説は、この紙幣価値を基準として動いているのではないかと見る経済学者がいても、おかしくないくらいである。ちょうど、為替レートや株の相場という不思議な数字がわれわれの世界の経済活動の基準となってしまっているように。
スメルジャコフが、親父を殺し、三千ルーブルを奪ったことをイヴァンに自白した後で、じっとその三千ルーブルを見つめる場面は、バルザックとは違った意味の凄味とそして悲哀がある。
この金というものに、十分以上振り回され続けた作家は、却って、金というものの性質をほとんど本質的に掴んでしまって離さないように思える。
白痴では「レーベジェフの財布」が登場し、レーベジェフとイヴォルギン将軍との間を自在に行き来し、金が作者によって、思う存分その相対的で醜怪な性質を暴露されているのが見られる。
レーベジェフは、また、ナスターシャが燃やそうとした札束の大金を、ナスターシャに懇願して救い出そうとして、しゃしゃり出、ナスターシャに峻拒される男である。ナスターシャに札束を取り出すことを命ぜられ、「取り出したらあんたのもんよ!」と告げられる普通人のガーニャは卒倒して倒れる。小説では、その大金は無事に取り出されるが、金はallか0かの間を激しく揺れ動く。
そろそろ、ドストエフスキーの経済感覚によって、体系づけられた経済学が出てきても良さそうに思える。
マルクスやエンゲルスが、バルザックを深く学んで彼らの経済学を体系づけたように。
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