Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 反時代的考察 <人格>

民主主義は人間を左右に分けるが、儒教はハッキリと君子と小人という具合に、人間を上下に分ける。これは何も、儒教に限らない。欧米ではエリットという考え方が厳然とある。古代では、神に選ばれしという意味だったが、貴族階級を生むのに必須の考え方であったことは、紛れようもない歴史事実である。


人格に優劣があることは、誰でも承認する事実であろうが、では、誰それが人格的に秀で、誰それは劣っているという人格的評価となると、現代の世の中では、ずいぶん曖昧になってしまった事柄に属する。


というのも、人間としての権利は、民主主義政体においては、誰でも平等であるというのが、基本的な原理であり、それに逆らってものを言うことが、現代ではじつに困難になってしまった事情が、どうしようもなくあるからである。


とはいうものの、いつの時代でも人格者は少なく、平凡人の方が圧倒的に多いというのは、変わらない真実であるようだ。


だが、話を元に戻そう。人格的な優劣の差と、権利の平等という意識とは、どうしても衝突しやすい概念で、いま、世の中を見てみれば、適当なところで折り合いをつけ、だが、誰でも権利は平等だからというところで決着するのが常である。


このことについて、何か釈然としない思いを持つ人は、わたしだけではないだろう。現代の世の中では、人格そのものも数値化を拒む、何か分からないものとして、考えに入れないという過激な考え方をする人もいるが、われわれがつつがなく社会生活を送る上では、誰でも、この人は人格として信用できる、いや、信用できないと人格的評価を知らず知らずのうちに、行っていることは確かなことである。


現在の中国では、人格さえAIによって、数値化しようとする動きが出ているが、これは、いくらでも抜け道の見つかるものであるもののようだ。


はっきりしていることは、人格とは決して、客観化も数値化もできない、極めて人間的な特性であり、われわれが社会生活を送る上では、誰でも無視することができない生活の知恵を密着した、まことに単純でありながら、豊かな含みを持つ概念であるということである。


ちなみに、「器」という人格的な特性から出て来た日本語は、欧米諸国にはないそうである。「あの人は器が大きい」というとき、どのような客観化も数値化も拒んだ言葉であることを忘れてはならないだろう。


従って、AIが人格を扱うことは、不可能事に属する。