Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ Ifというもの <第二次大戦と明治維新>

毎年、この時期になると、先の大戦のことが各メディアで、繰り返し取り上げられ、盛んに報道され、書かれる。取り上げられることは、少しも悪いことではないし、盛んに論評されることも結構なことである。


けれども、その報道のされ方、論評のされ方に、わたしはいつもある不審な思いを持つ者である。戦争、特に、第二次世界大戦はまるで、歴史の偶然視扱いされていることである。


歴史にIfは禁物だというのは、歴史というものを振り返り、思い描くときの大原則である。だが、日本のマスメディア、メディアは、どうしてもあの戦争だけは、もし、ああだったなら、こうだったなら、あのようにはなっていなかったろうという論調を決して止めない。


ことば数は少ないが、数多くの知識人の中で、戦前戦中戦後を通じて、わたしは反省などしないと明言し、態度を変えなかった人は、わたしは寡聞にして、小林秀雄一人しか知らない。


第二次大戦は、われわれが演じた紛うことなき悲劇である。それが、いかに後から振り返って見て、お粗末極まりない醜悪なものであったとしても、演じられた悲劇は、疑いもなく演じられたのである。


今のマスメディア、メディアに、第二次大戦という退っ引きならない悲劇的な相貌が、果たして、よくよく見えているのだろうかと疑いたくなるのである。わたしの父は、大戦時一兵卒過ぎなかった。その父からは、第二次大戦について、戦争は殺し合いだという感想を一言得ただけだった。


経験が、多くを語り、多くを学ばせるものであるとは限らない。異様な深刻な経験は、むしろ逆の働きをするであろう。


現代、第二次大戦という過去は、巨大な亡霊のごとく、われわれのすぐ背後に立ち続け、人々は、その奇怪な醜悪さから、どうしてもIfと発言しようとする。または、性急に否定しようとする。悪夢でも何でもありはしない。われわれ日本人が、演じなければならなかった正銘の厳然たる悲劇である。


明治維新という大業を果たした日本人の落ち着く先は、第二次大戦であったか。だが、これは、皮肉な見方に過ぎない。維新の偉業と第二次大戦時後期の愚行、これは、正しく日本人の表裏に他ならないのではなかろうか。そうして、表裏とは一体のものである。


これらを一丸として、語ることのできる大きな視野を持った歴史家はいつか出現することだろうか。歴史とは鏡に他ならない。自分の映った姿が、いかに異様であろうと、これがわれわれの姿だと、得心の行く像を提出できた歴史家は、まだ、出現していない。