エッセイ 人物民主主義
最近、NHKで、綱吉を名君と持ちあげている番組があった。わたしの言い方で言えば、人物民主主義もここまで来たかと、呆れたものだった。
学問には、いわゆる学会というものがあり、歴史という学問にも、歴史学会というものがあるそうである。しかしながら、こうした学会というものが、理系の学会は別にして、後世に残るようなものを何かものしたであろうかと問えば、答えは明瞭になるだろう。
歴史の見直しという動きが、相次いでいる。その楽屋裏を見れば、現在の成果主義の風潮が、歴史という寡黙な学問にまで及んでいるのが見て取れる。成果を出すためには、どんな解釈でも受け入れる、耳目を驚かせるようなものならもっと良いというような、なりふり構わない姿勢があるように思えてならない。
綱吉のような単なる学問好きの平平凡凡たる男を名君扱いするのには、けれども、それ以外の理由も働いているようだ。現今、人間についての確かな目を持った見巧者が、払底しているということだろう。人間観の不確かな小説や解釈ばかりが、持て囃されているような気がしてならない。
人間を知るとは、自分を知るということに他ならない。綱吉に名君を見る目は、そのまま、自分にも当てはまると勘違いする人間が増えるだけのことである。
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