エッセイ 短歌考
短歌には、高浜虚子のような人は出なかった。これは短歌が、俳句よりも自由な形式であったことにも拠ると思われるが、五七五七七という形式はあったのだが、必ず季語を含めなくてはならないということはない文芸であった。
俳句第二芸術論なるものが、一時期盛んに取り沙汰された時期があったのだが、俳句をどうにかしようという運動は、すでに虚子によって決着していたために、論は短歌に飛び火し、迷惑を被ったのは、俳句ではなく、短歌の方であった。
寡黙に、五七五七七という形式を守って作歌していた歌人にとっては、大変迷惑な論だったのだが、俵万智さんという人が出るに及んで、五七五七七は、まったく曖昧な形式となってしまって、現在に至っている。
ただ、短歌は俳句よりも、格段に古い長持ちのしている文学形式であり、小倉百人一首は、現代でも、尚、色褪せることない不思議なミクロコスモスである。編集の天才藤原定家の手腕の偉さを思わずにはいられない。
少し、乱れは出てくるとしても、いずれ、五七五七七と落ち着くところに落ち着くだろうと、わたしは思っている。
ちなみに、俳句は絵画的で、短歌は心情的であると言われる。現代のように色々な人の心が紛糾してしまった時代では、心情を表現する文芸が乱れるのも、無理のない勢いだとも思われる。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。