Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ ベートーヴェン<俗なるものと聖なるものの一体化>

前に、ビリー・ジョエルのポップスの迷惑だったことを書いたが、このことは、ベートーヴェンについてよく考えるときの糸口になるのではないかと心付いたので、ここに書いてみたい。


わたしはそのとき、「悲愴」の2楽章についてまったく無知であったから、ビリーの声が焼き付いてしまった訳だが、ベートーヴェンの曲は、確かに通俗と言ってよい面も多量に持ち合わせているので、同じ条件で、例えば「月光」の1楽章を、誰かがポップスとしてアレンジしたものを先に聴いていたとしたら、ビリーと同じようなことが起こったことは、想像に難くない。


21世紀に入るときのことだったが、NHKが、ある特集番組で、「21世紀に残しておきたい音楽」と銘打って、ランキングを付けて、あらゆる音楽を対象に、また世の中の様々な人々から大規模にアンケートして作った番組があった。


そのポップス音楽が中心の選考の中に、クラシック音楽から、ベートーヴェンの第五、第九の交響曲が一桁台にノミネートされていて、少なからぬ驚きを覚えたのだが、ベートーヴェンの音楽の、現代にまで通用する通俗性ということについて、よくよくかんがえてみなければならないと思ったが、そのときは驚きの思いのままで、考えは途切れていた。


このベートーヴェンの通俗さを、平気で分有している音楽としての幅の広さは、驚嘆して良いことなのだろう。ベートーヴェンの音楽の未だに衰えない通俗的な人気と、わたしがビリーに関して生じた先のことは、他ならぬベートーヴェンだからこそ起こったことだともかんがえられるからである。


「悲愴」の特に第2楽章の旋律は、それだけ俗的な甘さを、元々ふんだんに持っていたことは間違いない。だからこそ、ビリーの歌声があんなに見事に張り付いてしまったのだろう。だがまた、なにゆえに、それが、これほどまで長持ちのする楽曲になっているのか。


通俗なものは、その時代で玩弄され尽くして、消えて行くのが一般であろうし、また、そうなる定めのものでもある。それが、ベートーヴェンの手に掛かると、そうはならずに、不思議なことが起こる。


誰でも、知っている第九の「喜びの歌」を取り上げてみよう。意外に、思われるかも知れないが、この有名な旋律は、ベートーヴェン自身の作曲ではないのである。今では、もう名前も聞かれなくなった作曲家から取ってきたものである。


後期のベートーヴェンによく馴染んだ人は、こうした単純な旋律は、後期にな
ると聴かれなくなるのをよく知っているものでもある。


要するに、もし、この旋律をベートーヴェンが取り上げなかったとしたら、そのまま、歴史の波に揉まれて、消え去ってしまったに違いない旋律なのである。


Op120の「ディアベリ変奏曲」の長大なピアノ曲でも、同じことが起こっている。初めに提示されるディアベリという山師的な作曲家の、ただ聞き心地のよいだけのなにものでもない単純な旋律が、奇跡的な変奏によって、神聖さの高みにまで至ってしまう。


それに、「第五交響曲」の、あの俗なるものと聖なるものが、極度に圧縮され、一体になってしまった感のある、子供でも知っている「タタタ、ターン」の旋律の提示と、その後の変奏に次ぐ強烈な展開の極北まで行く展開部を経て、文字通りそのまま生まれ変わったような、勝利の再現部。


バッハやモーツァルトでは、ほとんど起こらなかったような現象が、起こっている。


こう見て行くと、ベートーヴェンの巨魁と言ってもいいような、超人的な力業を、まざまざと見せつけられるような気がする。そうして、その上に、あの自由な宗教性を持った、精神の内奥にまで至る、後期の音楽の数々である。


ベートーヴェンは、本当の意味で、人類のための音楽を書いた音楽家だと、言ってしまっていいのだろう。


ベートーヴェンが、バッハやモーツァルトに比肩するとんでもない音楽家であることは、すでに承知していても、改めて、その凄さをかんがえてみなければならない音楽家であると思わずにはいられない。