エッセイ 経済政策の可否 2 <結論を保留>
前の記事で、経済政策のことを書いたが、書き終わって何か、釈然としない思いがした。時代時代の様々な経済政策について、その結果を云々したがるというのは、現代的な趣味を出ないのではないかという思いだった。
現代は、結果論というものがはびこっていて、政治家自身も、「結果がすべて」というようなことを口にしているので、見分けるのがなかなか困難な状況だと思うのだが。
経済のような、さまざまな角度から考察しうる事象について、現代だけではなく、過去の歴史についても、その成果について云々したがるのは、そもそもが、現代的な趣味を出ないような事柄ではないかという疑念を、わたしは持っている。
現代的なもう一つの趣味に、色々な経済的事象を現代の通貨の価値に、置き換えて云々するというのがある。これも、一種の現代的な趣味を出ないものだと遇して、一向に差し支えないような、気がするのである。
そうでなければ、たとえば、天保の改革時の二宮尊徳の活躍などは、まるで、無価値な徒労であったとかんがえて、一顧だにしない経済学者が、出てきても、少しも不思議はなかろうと思う。
経済学においても、人間を取り戻すことが、何よりも急務な事に思えて、仕方がない。
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