エッセイ 自我の強さと心の強さ <混同し易いもの>
自我の強さと心の強さ、どちらを選べと言われれば、ほとんどの日本人は心の強さの方を選ぶのではなかろうか。
わたしは、とても不審なのだが、この二つのものを、同じものと見做す混迷した見解が、依然として、まかり通っているような気がするのだが。
前の記事で、個性の強さというものと自我の強さは、違うということを、短く、書かせて頂いたのだが、このことを本当に立証するためには、かなり、長い論証を必要とするだろうと、見当を付けたので、直観したところを、詳細はまったく省いて、要点だけ書いたのである。
今回、表題に掲げた事も、しっかりと論証しようと思ったら、おそらく本にしたら、かなり分厚くなるような論を経なければならないと思うので、やはり、要点だけ書かせて頂くことになろうかと、思う。
「虚勢を張る」という言葉がある。フランスに、ラ・ロシェフーコーという苦み走ったモラリストがいたが、彼の著作を、幾分、雑駁に圧縮してみると、彼にいわせれば、あらゆる人間性の美徳と言われているものは、自我が際限なく虚勢を張るというところに現れると、わたしは、彼の著作を理解している。
彼にとっては、虚勢を張ることイコール、美徳であり、また、イコールt自我の強さというところで、心というものを掴んでいると、わたしは見るのである。
これは、ラ・ロシェフーコーだけでなく、欧米人一般にも、拡張して言い得ることではないのかと、わたしは思っている。
日本では、その自我、また心の在り様がまるで、異なっていることは、雲泥の相違がある。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、欧米人には、まるで、理解不能な言葉のように思える。
日本人は、よく知っているのである。虚勢を張っているだけの人間が、如何に弱い心しか持っていないかということを。
そうである。自我の強さと心の強さとは、比例などしない。
欧米人は、男子壮年期の人間を、人類に典型の人間像としたがり過ぎる。この誤りは、早々に、見直されてしかるべきであると、思う。
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