エッセイ 権利と義務 <民主主義>
わたしは、政治的には左派でも、しっかりしている人は認める人間である。例えば、市川房枝という人が居たが、わたしはこの人は立派な人物だったと思っている。
その市川さんは、民主主義には、権利と義務が欠かせないと、口を酸っぱくして言っていたものだった。
そうなのである。権利とか人権とかだけではなく、同時に義務もあると言うことを、これほどはっきりと言っていた人は、他に居ないくらいである。
それを、思うと今回の名古屋城の復元計画に対して、障がい者の皆さんは、確かに権利は主張するが、義務の方は、一体どうなっているのかと、わたしは訝るのである。
障がいがあることで、人権というものは、拡大するのだろうか。障碍者の皆さんににも、しっかりと義務というものがあると、わたしは思う者である。
市民の大多数の人々が、おそらくは、世界遺産になるかも知れないような、建設が始まろうとするときに、何故に、多数の人々の権利と願いを妨げるようなことをするのだろうか。
報道であらましを見ていたが、差別とは言われるが、何が差別であって、これはそのまま区別と呼ぶべきものであるのか、判然としないまま、障がい者の皆さんの「差別だ。」の大合唱で、市側は、押し切られた格好になった。
障がい者の方々は、多数の市民の権利や願いを、封殺するまでの権利を持って居られるのだろうか。そうした障がい者の方々は、一体、どのような義務を果たしたので、そのような権利を持つに至ったのだろうか。
少数派の意見こそ大事にされるべきだという、民主主義的な論は、その少数者が全体の価値に見合う、優れた意見を持っているときに適用されるものだというように、わたしは民主主義というものを理解している。それでこそ、権利と義務というものが釣り合いが取れるのではなかろうか。
「差別だ」と言われる障がい者の方々に聞きたい。皆さんは、権利を主張されるとき、どのような義務を、自らかんがえて居られるのだろうか、と。
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