Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ シェイクスピアとドストエフスキー <試論7>

シェイクスピアの劇は、どれも早く進行するという印象があるのだが、その中でも、四大悲劇は、特にスピーディであると言って、良いようだ。


総行数で、もっとも長いのが、ハムレットであり、もっとも短いのがマクベスであるが、どちらも、科白が、畳みかけるように流れていく。リア王やオセローも、この点、同断である。


それに比べると、ドストエフスキーの小説では、そうした特徴は見られない。罪と罰では、むしろ読者に、三分間の沈黙さえ、強制している。


それで、ここでは、主に、ハムレットと罪と罰に焦点を当てて、書いていきたい。


ハムレットで、よく問題となるのは、ハムレットの性格であるが、彼の性格は、こうであるとは、どうしても断定し辛い性格を持っているので。


わたしは、かつて彼のことを、高貴な自由精神と評したのだが、どうも、これはわたしの本心では、あまり上手くない。いや、ハムレットはもっと豊かな性格を持っていて、こうした評では、ハムレットをよくよく繋ぎ止めて置くことはできないと、省みてかんがえたものである。


そうなのである。ハムレットという人間は、こうであるとは、じっさいどうにも断定できないが、こうではないと、はっきりと言えるという、曰く言いがたい性格の持ち主で、そうでありながら、なおも、人格としてきれいに独立しているという、じつに不思議な劇中人物なのである。


よく、ハムレットの優柔不断な性格と、言われる。クローディアスへの復讐を延期する箇所を指して、そう言うのだが、そうした言葉を聞くたびに、わたしはある抵抗を感じる。いや、ハムレットが優柔不断なのではない。ハムレットに対するわれわれの判断が、常に優柔不断で揺れ動くのだと。


どんな性格上の器となるようなことばを持って来ても、ハムレットはそこから常にはみ出す。人間として、じつに豊富で、しかも確固とした性格の持ち主であるという不思議さである。


ハムレットの性格の定義は、誰も成功しない、これからも、成功の機はあるまいが、誰をも、そうした誘惑に誘う劇中人物であることも、また、確かなことである。


それに比して、罪と罰のラスコーリニコフは、さほどその性格については、言及されない。ハムレットに対して、それほど魅力的な人間ではないと言えば、それまでなのだが。


たとえば、ハムレットはあくまで劇中人物に過ぎないのだが、ハムレットを読む誰もが、自分の身近に、ハムレットのような人間を感じられるというように、書かれている。これは、シェイクスピアの手柄と言っても良いのだが、ある意味では、功罪と言っても良いくらいなので、言わば、劇中人物と現実の人間とを、混同してしまう、良い意味での錯覚と言っていいくらいなのである。


ただ、ハムレットにはnobleさはあると言えるが、divineという性質は感じられないのだが。その代わり、罪と罰にはdivineという性質が現れる。先に言及した、ラスコーリニコフが自分の犯した殺人をソーニャに告白する、有名な三分間の沈黙を、読者に強いる場面が、それである。


この場面について、わたしは次のことに言及した評を知らないのだが、囚人として過ごしたときの著作、死の家の記録の中で、売春婦と殺人者との密会を、世にも醜悪な場面として、描かれる箇所がある。


わたしは、ドストエフスキーは、この醜悪極まりない箇所を、ここに応用していると見る者である。この世でもっとも醜悪な場面が、崇高な場面として、甦る。ドストエフスキーの見事な手腕であろう。両極端は、結びつくということを、示してる場面でもあるだろう。


そうして、このdivineと思われる箇所で、スヴィッドリガイロフという悪漢が、その告白を盗み聞きしているというのは、悪人としてのラスコーリニコフが、導いた必然と言って良いので、ドストエフスキーならではの意地の悪さ、というものではない。


そうして、あまり、論究されないが、罪と罰の最後のところで、ラスコーリニコフが警察署の衆目の面前で、自白する箇所。ここにも、わたしはdivineを、見る。


そうなのである。ここで、ラスコーリニコフという、異常な心の相克を持った人間を、きっぱりとひとつにして見せる、簡潔で十分な表現が、あらわれる。その箇所を引用してみたい。


「彼は、差し出されたコップの水を制し、こう言った。『わたしが、金貸しの老婆を殺害し、金品を奪ったのです。』と。ラスコーリニコフは供述を繰り返した。」


じつに、見事で、感動的な終結である。ここで、感動できないような読者は、どうかしていると言って良いくらいである。


ちなみに、言って置きたいが、ラスコーリニコフという人間は、どう弁明しようが、殺人者という悪人である。同情の余地は、ほとんどないと言って良いくらいの、最新式の悪漢である、ということである。罪と罰を読まれる人は、どうぞ、誤読なさらぬように。


「ハムレット」や「罪と罰」については、わたしは、以前に色々と書いたことがあります。興味がある方は、「エッセイ ハムレット ブログ」また「エッセイ 罪と罰考 ブログ」と入力し、bingなどの検索エンジンで、検索してみてください。わたしの論考が出てきます。


<続く>