Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ シェイクスピアとドストエフスキー <試論3>

これは、わたし自身の言い方となるが、この二人の作風の違いを、一度、比喩を使って表現して見たい。


シェイクスピアについては、スタンダールの故知を鑑みて、モーツァルトの音楽にも通ずる作風を持っていることから、


透き通った豊かな海の、明るく照らされた底が、間近に見え、その水深を尋ねると、驚嘆するような深さを持っているという作風、と言って良かろうか。


そうして、ドストエフスキーについては、同じく水についての比喩で、深い井戸の底の方に、浄められた水が張っていて、それを覗くと、くっきりと、自分の顔とその背後に広大な空が映っているのを見て驚く、と言ったような作風、という比喩表現で、如何であろうか。


これらの比喩が、適当がどうかは、読む方の判断にお委せするとして、わたしには、この二人の偉人の作風は、こんなように観ずるのである。


それから、シェイクスピアについては、その為人としての伝記がまるで伝わっていないこと。男色であったとか、女嫌いであったとか、千万の心を持っていたとか、皆、その作品から推測したに過ぎない、言寄せごとであるということを、しっかりと念頭に置いておく必要があろう。


この人の生没年についても、じつは曖昧で、わたしが読み始めた頃は、最後の著作を書いた後、十年の沈黙を守ってから、亡くなったと、教わったものであるし、それはそれでちゃんとした証拠があるのである。


現在の研究では、最後の著作を書いた後で、ほぼ、直近に亡くなったとしているようだが、これは、どうもわたしには、今の学者の常見というものが、反映されているのではないかと、少しばかり、疑念の気持ちを、持っている。


ランボーやベルクソンのように、創作活動を終えてから、十年や十数年の沈黙を守ってから亡くなったという例もある。


活動を終えると同時に、亡くなるというかんがえは自然なのだが、いかにも、自然なかんがえ過ぎるというのが、わたしの疑義である。


逆に、ドストエフスキーについては、有り余るほどの、伝記資料がある。余計なほどあると言って良いくらいである。


因みにだが、ドストエフスキーは小説家として、偉大なのであって、人間その人としては、まったく小人に属する人だということを、忘れてはいけないので、人間としての取り柄が最小限しかなくとも、偉大な作品を書くことができるという、見本のような人なので、そういう厄介な人だという認識を外さない方が良い。


そうでなければ、人間観そのものが転倒してしまうことに、なりかねない。偉大な小説家は、そのまま、けして、人間として偉大な人物という訳ではないのである。