エッセイ 捕鯨考 <漁業資源の荒廃>
再び、欧米批判をすることになると思うが、どうか、冷静に聞いて頂きたい。
捕鯨が盛んだった頃、海の漁業資源は今と比べて、ずっと豊富だった。
わたしは、思うのだが、鯨のような海の生態系の中で頂点を為すような、大型の生物を、よくは分からぬ理屈で、捕ることを中止してしまって、久しいのだが、そのために、海の生態系にかなりの無理が掛かっていることは、容易に、想像できると思う。
鯨は可愛いから、捕らない、で、済む話ではない。もし、捕鯨が元のように再開されれば、海の生態系は、元のように豊富になるように思えて、仕方がないのである。
保護の対象になっているくじらが一日に捕食する量と魚の種類は、一体どれほどで、どんな生物を食べているのか、恐らく、その正確な捕食数を知っている専門の研究者は、欧米では、一人もいまい。それに関しては、むしろ、捕鯨を続けている日本の研究者の方が詳しいであろう。
欧米人は、くじらを保護するのに注力するのではなく、アフリカ系の人々やアジア系の人々を、まず、大事にしてもらいたいものである。
そうして、今、問題になっている海岸の磯焼けという現象。これを、単なる科学上の仮説に過ぎない地球温暖化などという、雲を掴むような話と、混同すべきではない。地球温暖化などでは、説明のつかない事態なのである。
鯨の個体数が増えれば、当然、その下の食物となる魚たちは減る、そのまた下も同様である。
鯨は、オキアミのような小さな生物しか食べないというというのは、夢物語に等しい。食物連鎖の頂点に位置する生物を、そのまま放って置けば、食物連鎖が正常に機能しなくなるというのは、人間も同じことである。中国では、一人っ子政策までした。
どうして、また、くじらだけ放置され、優遇されたままなのであろうか。人間より、動物をかわいがるのは、単なる感傷主義に過ぎない。
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