Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 「カラマーゾフの兄弟」のこと <再び>

この書のこととなると、わたしはじつに様々な思いに溢れ、1、2回の記事で終わらせるのは、嫌なので、再び、書かせてもらいたいと思う。


次兄が横入りしたことや、また、この書の良さをまるで分からなかった、長兄もいたりして、色々騒がしい事もあったが、この書自体のことについて触れられなかったのは、とても残念なので、そのことをつらつらと、書いてみたい。


まず、不思議に思ったのは、この小説は当たり前なことに、ロシア語を日本語に翻訳したものである。当時のわたしは、ロシア語など、英語よりもはるかにもの遠く、その片言さえ知らないし、風土や文化についてもまるで無知である。当時は、新約聖書も読んでおらず、キリスト教については常識的なことしか知らないし、ましてや、その分派のロシアの国民宗教であるギリシア正教(現在はロシア正教)についても、何も知らない。にも関わらず、何故こんなに、肌に染みこむように理解できるのか。


当時のわたしは、そのことをよく自問自答してみたものである。文学というものは、じつに不思議なものだとしか、言いようがないようである。もちろん、一回だけ読んだときは、よく飲み込めないところもあった。特に、お終いの方にある「イッポリトの論告」などは、この男は一体何が言いたいのか、そのときは、よくよく掴めなかったし、そもそも、この小説の主題である、父親殺しの事件を、著者は、わざと読者を迷わせるように、真犯人を分からなくして書いているので、大いに、困惑したものである。


わたしは、この「カラマ-ゾフの兄弟」を、十回以上読んだものであるが、特に、「ガリラヤのカナ」の章や「大審問官」の章、また、その前後のアリョーシャとイヴァンの会話は、何回読んだのか、覚えていないほど、繰り返し繰り返し、読んだ。


また、著者が、長兄のミーチャに託す、ゲーテの詩から引用される詩精神の充実と、それに引き換え、次男のイヴァンの頭の中で鳴る、酔っ払いの戯れ歌の荒涼とした詩との対比は、見事なほど鮮明で、また、驚くほど、それぞれの人間にふさわしい詩として、的確極まりなく、描かれる。


そうして、この書の真の主人公である、アリョーシャについては、わたしは人間性というものの最もうつくしい精華ではないか、とさえ思っている。