エッセイ 心が所を得るということ <短詩型文学>
わたしは、ブログ村で、俳句や短歌も書かせてもらっているが、これはまったくの趣味の域を出ないもので、わたしが、一番読んでもらいたいと思っているのは、現代詩なのであるが。さて、自分の書くものの中で、何が一番出来が良いのだろうかとかんがえると、自分自身、分からなくなるのが、哀しいところではある。
それは、さておき、この俳句や短歌といった短詩型の詩だが、日本は、有り難い国だとつくづく思う。短く言い切れる詩が、一つばかりでなく、二つもある。こうした形式を持った詩というものは、人が考えているほど、その通りにあるというものではないので。
たとえば、ヨーロッパ圏を見ても、これだけ、短い言葉で言い切れる形式を持った詩型というものは、見当たらないようである。隣国の中国の漢詩で、五言絶句が、おそらく俳句に次いで短い詩型ではないかと思っているが、それでも、起承転結を展開し、韻を踏み、平仄を整えなければならない、厄介な約束事がある。
その点、俳句は五七五(しかも厳格ではない)で後は季語を入れれば良いという、じつはとても約束事の少ない形式なので。短歌に至っては、五七五七七であればよいし、字が一字か二字くらい余ってもよい。これだけ自由度の高い詩形式は、世界的に見ても、めずらしいと言って良い。そして、もちろんの事、俳句は世界最短の詩である。
日本語ができるような人ならば、俳句や短歌を作らない方が、損だと言えるくらいの文学についての敷居の低さである。
わたしがこれらの短詩型文学を好むのは、こうした形式のある短詩型を詠むと、何か自分のこころが所を得たように感ずるからである。
過去の日本の、大きく言えば、歴史伝統といって良いものと、いくらかなりとも、繋がったという感覚と言って良いかも知れないが。
そこまで、大それていなくとも、やはり、こころがある形を得たと感ずるのは、確かであって、これは、ささやかなことながら、わたし自身にとっては大きなことなのである。
日本語ができるようなみなさんには、この短詩型文学を、心から、おすすめしたいと思っています。
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