インテリゲンチャの不在 <現代の知的空白>
現在、日本だけでなく、諸外国を見渡して見ても、インテリゲンチャと呼べるような人が居なくなってしまっている。村上春樹が一人いるが、残念ながら、彼の作品はどうしても、思想としての力は弱いように思えてならない。
ちなみに、インテリゲンチャという言葉は、ロシア語である。蒙昧な貧しい民衆と暗愚な専制君主との間にあって苦悩し、生きる意味を真剣に問い続けようとした一連の知識人たちをインテリゲンチャと呼び、トルストイやドストエフスキー、ゴーゴリ、チェーホフなど、実に様々な魅力的なタイプの知識人を生んだのである。
それはともかく、アラン、ヴァレリー、ベルクソンを筆頭に、その後、カミュ、サルトル、ジイド、また、その次には、ドゥールーズ、レヴィ・ストロース、デリダ等、実存主義、構造主義等の思想を提供してきたフランス三人組も、もう、その新しい名を聞かないし、世界をリードするような新しい思想も出現していない。
この思想の空白状態、インテリゲンチャの不在という現象は、何を意味しているのだろうか。
曖昧な国家と不安で孤独な民衆とのはざまで、現代の知識人たちは、為す術を知らないように見える。
人間いかに生きるべきか、生きることの意味や価値、それらを真剣に問い続けながら、生きて行こうとする知識人が、払底してしまった。これら、永遠のテーマを問い続け、世の中を渡ろうとする知的傑物は、どこに行ってしまったのだろうか。
常識人は生活することに多忙で、知識は専門家たちに聞けばよいという風潮となった。
常識と実生活の味わい、それと一般的な教養があれば足りる、そうして自らを内省し、生きる意味を問い続けるという知識人のタイプが、今、どこかに行ってしまったのである。きっと、隠れて日々生活しているには違いないとは信じているが。
新興宗教の隆盛は、それら永遠の問いに、答えばかり与えようとする人間たちの流行を物語っている。
この世界的な人間的知力の低下の現象を、なんと表現すべきであろうか。一種言いようのない知的空白の不気味さを感じているのはわたしだけであろうか。
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