Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 働くということ 5 <資本主義下での労働>

資本主義経済の誕生から間もなく、社会には、大変革が起こり、「資本論」のような、資本主義的な運動に、急ブレーキを掛けようとする新思想が登場することは、皆さん、ご存知の通りである。


ここで、先述した、量の多寡は質の変化をもたらすということばを、つらつらとかんがえてみたい。


金、特に貴金属である金銀が、ある一定の量を保っていた間は、マルクスの論は、確かに、正しかったと思われるが、現実の金銀の実際量では、もう、金が賄えなくなるほど、市場が巨大化すると、マルクスの論は、もはや時代遅れであるばかりでなく、はっきりと誤ったものとして、変質することになっていったというのが、わたしの見解である。


資本主義は、「資本論」の指摘した通り、「人狼」的な性質を持っていたことは争えないし、今でも尚、その面影を持っていると言っても、間違ってはいまい。ただ、現代では、その人狼的な姿を現すのは、絶対的少数の人々に、限局されていった。(日本では、特に、下請けの下請けのさらにその下請けに当たるようなトラックの運転手などに、そうしたことが見受けられるのだが。)


その代わり、資本主義の持つ、もう一つの顔である、「福の神」の性質が、物質的な面では、現代、資本主義を導入した国々の間で、末端の人々まで行き渡った観を成している。


これは、マルクスが、まったく予想もしなかった光景と言って良いであろう。マルクスは、もし、革命が起こるとすれば、アメリカであろうと予言しているが、これはまるで的中しなかったばかりでなく、マルクスの人間観の浅さを曝け出しているような事柄だと思われる。


フランス革命は、人々が「パンをよこせ!」と大合唱して起こった革命である事を想起して見れば良い。アメリカでは、有閑階級よりも、むしろ、末端の労働者たちの方が太っているのである。


そうして、この昔とは、まったく異なる変貌を遂げたしまった、現代社会の直中にあって、「働くということ」の意義を、かんがえ見つめ直さなければならない必要を、わたしは、強く感じる者なのである。


そうなのである。いまのこの社会の中で、「働くということ」とは、果たして、どういうことであるのか。


<続く>