Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 内田光子のモーツァルト 2 <ヴァイオリン・ソナタ>

内田光子のモーツァルトの演奏は、もっとも良く聴くCDの中の数十枚である。ピアノソナタやピアノ協奏曲の演奏は事あるごとに聴いている。わたしは、この人のモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは一枚しか持っていないが、ズスケのヴァイオリン・ソナタより余程いい。


ズスケの方は、あのいつも真新しいモーツァルトが、何故か、ひどく古臭く聞こえる。それも、出だしから何か手垢に塗れてしまっているようで、以前は、良く愛聴していたのだが、もう、何度も聴く気になれなくなった。


一体に、ヴァイオリン・ソナタ(人によっては、ヴァイオリン・ソナタforピアノと言いたいところであろうが、慣習として。)の演奏は、昔のレコードなどと比べると、段違いに演奏が難しくなっているようで、その代わり、一人で弾けるピアノソナタなどは、却って良くなってきているという不思議な現象がある。


ただ、三人なら良いようで、ズスケのモーツァルトのピアノ三重奏曲は、わたしの愛聴盤である。こちらは、いくら聴いても聴き飽きない。(因みに、ズスケはヴァイオリニストであるが、主導権を握っている方を、対象として)


わたしは、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの名演と言われる演奏を、ずいぶん探して、ラド・ルプーのものまで聴いたのだが、現代のもので、わたしが納得できたのは、内田光子のものだけだった。けれども、不思議なことに、彼女はモーツァルトのヴァイオリン・ソナタはCD一枚しか出していないようだが。


ちなみに、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタで、アルゲリッチとクレーメルのCDの全曲版があるが、この演奏は、なんだか、まるで二人が言い合いのケンカをしているようで、とても、毎日は聴けない演奏である。もう一つ、クレーメルのバッハの「シャコンヌ」は、聴いて、拍子抜けしてしまった。クレーメルは水が流れるような演奏家として有名だが、あのシャコンヌの熱量には、少しも向かないようである。


それはともかく、全体、何故に、二人で演奏する曲に、名演奏が出ないのか、わたしなりの意見を言わせてもらうと、もはや、ディアレクティークの時代ではないというのが、わたしの結論である。このヘーゲルによって新しく編み直され、マルクスが良いように解釈した、古来からの対話法は、もう行き場を失ったのではないか。


命題と反対命題との衝突を経ての止揚(アウフヘーベン)とは、時代遅れとなった思考法の一つに過ぎなくなったということである。


世界的に見ても、イデオロギックな政治的議論は、もはや影を潜めたし、経済活動に主眼が置かれるようになって久しい。


音楽は、時代の風潮にもっとも敏感な芸術である。日本流に言えば、ヴァオリン・ソナタは本来言い合いではなく、話し合いの芸術であろう。


モーツァルトの時代、貴族の慰み用として書かれた曲に過ぎないのに、モーツァルトの天才は、これらの曲に黄金の均衡を与えることに成功した。


もはや、現代人には、ヴァイオリン・ソナタは弾けないと、言ってはいけないのだろう。現に、内田光子の名盤がある。ヴァイオリン・ソナタは、日本人との演奏なら可能なのではないか。日本人は、自分を失わずに、人と合わす心を持ち合わせているからである。(無論、これも人に選るものではあるが。)