Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 源氏物語考 3 <須磨>

「『須磨』を読まずに、源氏を語るな」とは、昔から、源氏物語について言われてきた忠告である。


この忠告を、わたしはこのように取る。「須磨」を経て、光源氏はいよいよ、女には手放せない男になったと。


有名な、雷が源氏のすぐそばの柱に落ちる場面は、非常な迫真力をもって書かれる。左遷された源氏が、尚も、試練に曝される箇所であるが、これから先、源氏物語はぐんと深みを増す。ということは、光源氏の魅力もそれに応じて、深まるということである。


わたしには、源氏物語という小説は、抑もが、八重の箱に入れられた物語のように思えてならない。物語の仕組みそのものが、そうなのである。わたしは、源氏物語を論じて、光源氏に言及しない論というものは、信じられないのである。その人は、明らかに何か大切なものを釣り落としてしまっている。直感的に、そう思うのである。光源氏は、この物語の脊髄そのものであると。


そうして、この主人公の人格は、とても奥深く隠されている。八重の箱の中の奥に、厳重に保存されているもののように。少しでも、分析的な手を加えれば、そのまま、雲散霧消してしまうような、不思議な人格として。


源氏物語が、国際的な評価を得たのは、つい最近のことである。その間、千年の歳月が経っている。大古典であるが、こうした運命を辿った大古典は、世界的に見ても、類例がない。運命そのものが、まるで、夢のような話である。


そうなのである。源氏物語は、物語そのものが、厳重にその勘所を隠しているという、不思議極まる古典なのである。


ある女房が、光源氏を評して言う。「まるで、柳に桜花が咲いたようなお人柄だ」と。この比喩が、光源氏に対する、比喩の限界点であって、それは、分析の適わぬ、この物語そのものの純一した感動に、収斂されるのである。