Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 「ドン・キホーテ<前編・後編>」セルバンテス <読書経験> 2

<続き>


そうして、振り返って思えば、どこにでもいるような平凡な田舎娘を、貴婦人のドゥルシネーアとして、ここまで思い詰めることができる男とは、本当の阿呆ではないかという思いがどこかで過る。本で頭を焼かれた男。まさしく作者セルバンテスの狙ったところであろう。


「ドン・キホーテ」に見られる、数々の滑稽な挿話は、みなさん色々とご存知のことと思うが、これは、そのほとんどすべてが、真面目な騎士物語から題材を得ているので、滑稽だからこそ人々の共感を呼び、ドン・キホーテという作中人物の偉大な心情が、読んだ後から伝わるという不思議な仕組みを取っていることに気が付くと、セルバンテスという作者の異様な眼光が、紙背から透けて見えてくるのが感じられるのである。


サンチョ・パンサは、警邏たちに釈明するとき、ドン・キホーテのことを、「わしのご主人は、まるで水瓶の水のように澄んだ心を持っておられますで。」と言う。これは、サンチョという人物から見たドン・キホーテを評した精一杯の比喩なので、その比喩の仕方が,またいかにもサンチョらしいということにも思い当たって欲しいところである。読む者は、そこで、その通りだと強く頷く。「ドン・キホーテ」のどこにも、「偉大な心情の持ち主」とドン・キホーテのことを評した言葉は、わたしが読んだ限りないのである。


前編の最後の方に、何か書士らしい人物が現れるが、この書士については、どういう人物であるのか何の説明もない。けれども、何気ない会話を数語交わすだけで、何か腹に一物のある、腹黒い人物であることが読む者に伝わって来る。これも、セルバンテスの筆力の確かさというものだろう。


続編に入ると、サンチョが士大夫に取り立てられて、政治を執り行う場面が出て来る。読んでいると、あのドン・キホーテに付き従っていくしかなかったサンチョが、しっかりとした処世法を心得、人々の紛争をテキパキと処理していく様は、確かに読み応えがあるが、どこかで、あのサンチョがという可笑しみをこらえることができない。だだ、現代の民主主義政治を思うと、サンチョ・パンサとまるで同じことが起こっているということに思い当たったりもするが。


それはともかく、続編の最後の方だったと憶えているが、ドン・キホーテと直接決闘する相手が現れる。まるで、現代の映画のワンシーンを見ているような感を覚えさせる場面で、ドン・キホーテの持った武器(確か、棍棒だと記憶しているが)と相手の剣とが、まったく同時に、互いに襲いかかるという様が、まるで映画のスローモーションでも見ているように、迫力を持って、細部まで、しかもスピーディに書かれる。それでいて、どこかコミカルな味を失わない。セルバンテスの筆が踊っているように感じられる箇所である。


こうした滑稽さを少しも踏み外さずに、物語を物語っていくセルバンテスの筆力は、じつに大したものと言っていいので、読者は、読み終わった後に、この小説を振り返ったとき、ドン・キホーテの偉大な心情を思わずにはいられないという仕組みに出来上がっていることに、改めて、驚かされるのである。


ダンテと違い、セルバンテスは作中にまったく姿を現さない。あくまで、この小説の作者に過ぎないという姿勢を貫いている。


ただ、後世への贈り物として、作者自身さえ予期していなかった、作品以外の作者の言葉が残っている。セルバンテスは、この「ドン・キホーテ」が当時非常な評判をとったために、世間の風紀を乱したとして風俗紊乱罪という罪で、投獄されてしまっている。当時の小説家の社会的地位というものは、現代とは比較にならないほど低かったのである。裁判となり、セルバンテスが残した言葉は、「ドン・キホーテはわたしだ」という釈明の言葉であった。


この言葉は、われわれに色々なことを思わせるが、また同時に、分析が不可能な言葉でもあるようだ。われわれは各自で、この言葉の重みを感じるしか、他に手立てはないようである。