Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 翻訳というもの <神曲等について>


一時期、文学にせよ論文にせよ、翻訳で、一体何パーセントが伝わるのだろうということが、盛んに言われたことがあった。わたしは児戯に属する議論だと思っていたが、一口に言えば、伝わるものは伝わるし、伝わらないものは伝わらない。それで、少しも構わないではないかと思っている。


前掲した「神曲」にしても、原文は厳格な形式を持った詩であるそうだから、現代日本語の形式を持たない散文調で訳すのは、どうかというのであるが、そういうことを言えば、シェイクスピアも、ほとんどの作品が、ブランク・バースと言われる、われわれには、通じようのない英語圏の詩形式に則って書かれているのであって、そうした形式は訳しようがないものとして、われわれは訳文を受け入れるのが、もっとも妥当だろうと思う。


では、本国の現代のイタリアでは、人々はどのように「神曲」を読んでいるかと言えば、今のイタリアの現代語訳に直して読んでいるのである。それも、言語は生き物であるから、時代時代によって、当然変わる。「神曲」はそのたびに、その時代の言語で訳され、営々と翻訳する努力を積み重ねて来たのである。そういう努力は、イタリア人は少しも惜しまない。


今、われわれ日本人が、優良な日本語で、「神曲」を読めるというのも、そうした人々の努力の賜物なのである。


外国ものの文章を読むのであったら、無理をしても原文でというのが、現代インテリの口を揃えて言うところだが、わたしはこれを深く疑う。小林秀雄はロシア語は初歩程度しか、勉強していないし、実際翻訳に頼って読んでいるが、ドストエフスキーについて、あれだけ見事な論考を残した。原文で読んだ、井筒俊彦の論考よりも格段に優れている。


われわれ現代日本人が、本当に腹に堪えている言語は、現代日本語である他はない。われわれは、優れた翻訳家の文章を信頼して、少しも差し支えなどないのだと強く思う。