Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ ダンテ「神曲」の表現力 <世界屈指の大文学>

わたしが読んだ中で、もっとも深刻な表現力を持っていると感じたのは、ダンテの「神曲」であった。もちろん翻訳ではあるが、言語表現とは、これほどまでに力強いものかと、舌を巻き、恐懼したものだった。


地獄篇の最初の方に、およそ2ページにわたるほどの長い比喩がある。地獄の空気が濃厚に漂う中、まるで一服の休息のように書かれた、この比喩は、地獄を案内するウェルギリウスの微妙に落胆した表情を表すのに使われるのだが、その自然現象の表現の的確さと言い、使われるところの絶妙さと言い、じつに当を得たものである。


地獄の悪魔たちの描き方も、また見事で、そんなことは一言も書かれていないのに、ウェルギリウスや同行するダンテよりも、明らかに背が低く、猫背で歩くことがはっきりと伝わるし、地獄の濃厚な空気に慣れきった住人たちであることが、よく分かる。そうした表現は一切ないのにである。


地獄篇に登場する怪物たちにしても、日本でよく流行した映画やアニメに描かれる怪獣たちは、みんなこの「神曲」から、題材を得たと言っても過言ではないだろう。


地獄篇から煉獄篇に入るところでは、地獄の濃密な息苦しい空気が、次第次第に薄れて、晴れて来るのが篇を進むごとに感じられてくるのだが、神曲には、地獄の空気が薄くなったなどと言う表現は、どこにもないのである。われわれは、読んでいたとき、確かに地獄の濃厚な空気を吸っていたことが、後になって分かるように書かれている。これほど、行間がものを言う翻訳文学というものは他にない。


比喩の使い方の巧みさも、特筆に値する。現世で見たすさまじい光景が、地獄においては、物が変わっただけで、これは、そのまま現実であるというように転倒して使われている。比喩は、多用すべきではないとは、一時期流行った、文学的忠告だったが、一種の流行に過ぎなかったことは、この「神曲」が証している。


煉獄篇には、ミケランジェロを彷彿させるような、彫刻的な表現がある。イタリアの造形美と言っていいものが、随所に見られる。重い荷物を背負い長い坂道を上がって行く、日本で言うところの人生を思わせるような篇であるが、地獄篇のすさまじさを味わった者には、少し物足りなく思うかも知れない。


煉獄から天国に赴くとき、同行者がウェルギリウスからベアトリーチェに変わる。ダンテがこよなく愛した女性だが、その表情は固く、些かもぶれない。この天国篇には、初めの方に、「確固たるキリスト教の信仰を持った者でなければ、この篇はこれ以上、読み進むことを禁じる」という言葉が出てくる。じつは、わたしはこの言葉に従い、初めて読んだとき、そこで律儀にも中断したものである。


その後、何年か経って、自分自身の宗教上の信念が確立されてから、読み直し、全巻を通読したものであった。キリスト教の精神とは、かくも人を選ぶものかと思ったものだが、内容について書くのは、上記のこともあり、控えたい。ダンテの「神曲」は、良い翻訳が多く出ている。よくよくお薦めしたい世界屈指の大文学である。