Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 詩と形式 <文芸というもの>

あるテレビ番組のお陰で、俳句が流行りだそうである。良い傾向だとは思っているが、さて、その番組は見ていない。わたし自身、俳句制作者の一人として見ていると、どうかと思うくらい独断的だからである。指導者的であるのと、切れ味が良い批評と褒め方という以上のものは、得られないようである。


だが、振り返って思えば、文芸広しと言えども、あのように師弟関係が出来上がるのは、俳句形式のみだろう。五七五形式があり、また、多くの季語を覚えなくてはならない不思議な文芸だからである。


誤解されては困るが、わたしは少しも、かの番組について批判しているのではない。初めに言ったように、良い傾向だと喜んでいるので、少し昔のころは、俳句なんて古臭いものと、鼻も引っかけない日本人が多くいたものだからである。


さて、詩だが、ご存知のように、これには形式というものがまったくない。三好達治が述懐しているが、詩は、書いているうちに消えてしまうようなものであると。わたしの場合は、詩を書くときは地獄の苦しみを味わい、俳句や短歌など形式があるものは、ほとんど楽しみながら詠んでいるのに気づく。


詩を書く人に言わせれば、節操がないと言われるだろうが、現代、詩を書くような人に、言いたいことが、わたしにはある。


現代詩は、どれも賢過ぎる書き方がなされている、そうでなければ、ある著名な詩人が信条としたように、受け狙いの詩を書こうとする。(その詩人は、晩年、「詩はつまらないもの」と言い出したが、受け狙いの詩を書いていた当然の帰結と言って良いのである。)


高浜虚子が言ったように、われわれは、ボーッとした、間抜けな詩を、書いていた方がずっと良いだろうと思う。頭で書かれたような詩は、一行読めば分かるから、もうそれ以上読む気がしない。


昔から言われるように、真心で書かれたものでなければ、人を感動させはしない。霊感など、計算で生まれはしない。ボーッと突っ立っているような詩こそ、本物である。