Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 貨幣考2<キャッシュレス 鍵の付いた貨幣>

資本主義経済は、金銀に変わる貨幣として、紙を選んだが、これは、見事な応用問題の解き方だったと言って良いだろう。実質的な価値を持つ物体から、形而上的な信用を載せた紙幣への移行は、さしたる混乱もなく、滞りなく行われたようである。


そして、さらに時代は変わり、キャッシュレスの時代へと変貌しつつある。最初に、その特徴を言って置けば、火を使わなくとも、消え得る貨幣と言って良かろうか。


少し過去を振り返ってみたい。給料を現金払いか銀行口座払いにするかで、色々揉めたことがあったが、現金主義者は説得され、ほとんどすべての会社が、この口座払いを選択した。


金は、さらに、その形而下的性質を下げ、通帳というじつに僅かなインクと紙に表現され、突き詰めれば、デジタル信号とコンピューターの記録にまで、委ねられるまでに至った。


テレビで、6億円の宝くじが当たった人の通帳を、放映していたが、その三桁ばかりの数字の印字の下に、600,000,352であったろうか、下の数字はわたしの勝手な記憶に拠るものだが、その驚くほどシンプルな貨幣表現に、ある不思議な感を抱いたが、金というものの魔的極まる性質のものが、あまりにも、平静に端的に表現されたものと言って良かっただろう。


見る人によっては、どれほどの欲望を刺激するものであったことは、想像に難くないが。あの0の羅列に、ある程度の0を付け加えれば、ある国の国家予算さえ表現する金にもなるものと考えると、何か、不気味なものさえ感じたものであるが、ただ、このように、驚くほど簡潔で、単純極まる貨幣表現として、これを越えるものは、ないのではないかというかんがえも同時に浮かんだ。電電公社からNTTに移行されたとき、国から手渡された莫大の額の株が、一枚の紙であったことを想起されても良いだろう。


金は、どこまで行っても数字であるが、数字をこのように軽快に動くものに変えたのは、歴史を遡れば、イスラーム文化によるアラビア数字である。ムハンマドが商人であったことをここで想起して貰っても良い。算盤の原型は古代ギリシアに求められるそうだが、その玉はまことに重々しくにしか動かなかったそうである。それが、パチパチと軽快に弾かれるようになったのは、日本では、江戸時代になってからのことである。


ところで、金銀は、紙幣という信用貨幣と成り代わったことを、前の論で書いたが、今の時代は、その信用度をコンピューターの正確性に帰そうとする。果たして、正確性は信用に値するかどうかの論は、次への課題として省くことにするが、ここでは、一応信頼できるものとして論を進めたい。


デジタルタトゥーという言葉があり、一度、コンピューターを操作すれば、その記憶はコンピューターがしっかり記録していて、誤魔化すことが出来ないというのが、今の時代の常識であるが、それとは、別次元に属することが起こった。量子コンピューターの実用化を示唆する報道があったことである。市場は真っ先に反応し、暗号資産の相場が急降下した。表題に、鍵の付いた貨幣と書いたが、この桁外れの計算能力を持った量子コンピューターは、暗号という鍵をいとも容易く解いてしまうのである。


答えは、かなり明瞭であるように思われる。人類の経済活動は、再び、紙という形而下の貨幣に、戻るしかないのではなかろうか。金は、端末からプリントされ、紙としての形而下の上で、証明されなければ、信用できないという事態になり得ると予想できるように思う。キャッシュレスされた現在でも、レシートという信用紙は必須の購買条件であるように。このレシートは単なる慣例ではない。


キャッシュレス化は、これからも進むことであろうが、この言わば、第二の応用問題は、よく解けているとは思えないのである。現金という紙幣とは、別の紙が有用になるように思えてならないのである。


そうして、金という不思議な実体を、電磁的な記号にまで、形而下的に追い込んでしまった現代社会の、軽薄な、またある意味で不気味な世相というものを、振り返って思うべきであろう。