エッセイ 「万歳」考
東洋にはあるが、欧米にはない言葉として、代表的な言葉ではないかと思う。
これは、欧米諸国に君臨しているのは、Godであって、人間ではないということを如実に物語っている言葉として、考察に値する言葉ではないかと思う。
欧米諸国では、この世を支配するのはGodである。ここには、日本や東洋では窺い知れないような抜きがたい思想があるので、知っておられる方も多いだろうが、聖書に由来するGodは、「復活の日」を出現させる権能を持った神である。
復活の日とは、人間が現世に生きていた生き身のままで、復活を遂げ、キリスト教ならキリストから、ユダヤ教、イスラーム教ならGodから、それぞれ現世での行いを裁かれ、天国や地獄に送られる日のことである。
こうした考え方は、われわれ東洋人には与り知らぬ思想で、世界最後の日が、なんとなく近代的な響きを持った言葉であるのも、この考えが近代になってから輸入された思想であるせいだろう。
感極まって、この時が永遠に続いて欲しいというとき、東洋人はバンザイまたは、マンセイ、あるいはバンゼイと三唱するのであるが、欧米人はハレルヤあるいはアレルヤである。意味は、「神を讃えよ」である。
これは、私見であるが、英語などの欧米語では、文法で時制というものにとても重きを置き、厳重でさえある。現在完了形や未来形などという日本語にはない文法がある。このことは、欧米諸国の人たちが、「復活の日」を起点に、ものを考える習癖、と言って悪ければ、ある未来の時点で、極めて重大な日が待っているという思想を持っているからに他ならないのではないかとわたしは考えるのである。
というのも、日本語はそもそもそれほど時制に関して、厳しい文法を持っていない。時制について、あまりやかましいことは言わない言語である。
それで、日本語が海外に紹介されたとき、これは文法的に欠陥のある言語であるという俗論が大真面目でまかり通った時代があったのである。今でも、日本語は曖昧な言語だと、本気信じている日本人がいるくらいである。
これは、明らかな東西文化の違いであって、日本語は含みの豊かな言語であることは間違いないが、それと曖昧な言語というのは、次元の違う話なのである。むしろ、正確に言おうとすれば、これほど言語的ニュアンスを含めて、多言語を正確に言い表せる言語もないくらいである。
このことは、日本語が二種の表音文字から漢字の表意文字またオノマトペまで持っており、ルビという世界でも日本語しかない言語を持っていることにも拠るが、詳細の論については煩雑になり過ぎるから省きたい。
従って、「万歳」とは、ローカルな言葉とならざるを得ないが、宗教を抜きにすれば、これほど、それこそそのまま、両手を挙げて、物事を祝福できる言葉もないくらいである。
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