Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 一見は万言を生ず

「百聞は一見に如かず」は古来からのことわざだが、現代は、メディアの非常な発達によって、誰でも一見が可能となった。


現代では、特に、撮影技術が発達したので、未知であったことが、どんどん衆目にさらされ、誰もが、その撮影された現場の目撃者となり得る時代となった。


つまり、一見ばかりが溢れるという時代になったのだが、注意して頂きたいことがある。ある対象について、一つのまとまりのある直観を得るということは、じつはむずかしいことなので、本来、百聞を鎮めさせるはずの一見が、逆に、そこから人々を喋り出させるという仕儀になってしまっているということである。


画家が描く絵のなどのような芸術は、人々を言葉から解放し、一つの充実した沈黙にいざなう力を持っているが、防犯カメラやスマホなどのようなもので捕らえられた映像は、なまなましい事実で、人間の心は、本来、そうしたなまなましい現実には耐えられないものである。そこで、人々はそこからしゃべりはじめ、言葉を求めてさまよう。事件性の高い映像なら、尚のことである。コメンテーターという職業の登場は、SNSの普及に拠るところが大きいと思うが、この不思議な職業が成り立つのも、この一見が、先に、可能となった現代特有の事情に拠るようである。


一見とは、じつは百聞という、長い前置きがあってこその一見だったことが、これで、はっきりとするだろう。ほんとうは、芸術家のような目が、知らぬ間に求められていたのではなかろうか。なまの事実は、よくよく咀嚼されてから、言葉の通り、腑に落ちていたので、そのままの現実を飲み込むということは、もともと人間にはできない相談であるといっていい。


情報番組に見られるようなおしゃべりは、笑いか教訓か推理のようなかたちを取らないと、区切りというものを付けられないもののようで、言葉は言葉を求めて、際限のないおしゃべりに終始するのが常である。コメンテーターを誰にするのか、今は、手探りのような状態であるように見えるのも、うまいコメントというよりは、話に区切りをつけられる人が選ばれる傾向にあるからのようである。


コメンテーターという人をよく見ていると、ある権威を持った教訓家兼推論家かお笑いの人であることがほとんどである。一緒に出てくる専門家なる人たちも、新知識を披露した後で、落ち着くところは、この部類となる。


一見が、一つのまとまりのある直観となるのは、現代では、まれな事態である。ものをつくづくと見るという人間的行為がどうしても必要なので、そのためには、ある事実なり事件は、近付いて見る方が良いのか、それとも、しっかりと距離置いてみるのが良いのか、それさえ、一見によって、失念されてしまっているようである。現代人は、ものには近付けば近付くほど、よく見えるものだという一種根深い信仰のようなものがあるようである。一見したら、すぐに、おしゃべりに乗っかってしまい、得るものは、常套的な教訓かあやふやな推論か俗な笑いのみである。情報番組などを見た後で感じる、なにか空虚な心持ちはそんなところに求められるように思う。