エッセイ 嘘ということ
法華経を持ち出すまでもなく、ウソには様々な効用がある。芸術の中でも、小説という大きなウソがある。ドストエフスキーの小説が、どれほどの迫真力とリアリティを持ったものであろうと、それらの小説群がまったくの絵空事であるのは明々白々のことである。
フロイトだったと記憶しているが、科学の弱点は、真理に対して従順なことであると言っていた。科学万能の世の中では、真実ではないことは、そのまま悪ということになってしまいがちのようである。
しかしながら、実生活をよくよく振り返ってみれば、真実のことしか言わないという人には、出会う方が難しいであろうし、また、そうした人と出会っても、その付き合いはおそろしく気まずい、困難なものになるであろうことは、想像に難くない。
これは、一体どうしたことであろうか。真実とウソとは実生活では、相反するものではなく、互いに分かち難く結び合っていることの証拠ではないだろうか。
兼好は、自分の生きていた時代を、空言多き世の中なりと嘆いたが、現今のフェイクニュースばやりの世相を見ていると、兼好の時代と根底では変わりのない人間的世界のうちに、われわれは生を送っているようである。
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