Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 源氏物語考 2

「源氏の前に源氏なく、源氏の後に源氏なし」そんな言葉があったかどうか忘れたが、史的に見ると、源氏物語は聖徳太子並みにその時代を超えている。


貞永式目が典範を持たない憲法であっったように、源氏も、その類例を前代に求められない。わずかに竹取物語にその萌芽を見いだせるだけである。かぐや姫があらゆる男を惹き付ける女であったように、光源氏はあらゆる女を惹き付ける。


これを、式部の思いに直せば、「わたしが無限の愛情を注ぐことができる男」を創造しようとしたと言ってもよかろう。「わたしが」を「女が」に言い換えた方が正確かもしれない。


以前のわたしの読み方は、光源氏、はいわば「アンナ・カレーニナ」のレーヴィンとウロンスキーとを掛け合わせたような男という読み方をしていたが、これは、宇治十帖のあだなる匂宮とまめなる薫宮という知的な性格分類を、近代的に言い直したに過ぎないし、それでは、源氏をひっくり返して読むことになってしまう。


光源氏は純一な人間としてのイマージュで、知的な分裂を知らない。女が無限に愛しうる男というまっすぐなこころ<情>が光源氏という焦点を結んだので、別々の性格が掛け合わされたのではない。源氏があれほど、バラエティに富んだ女たちと交渉を持ちながら、分裂を知らないでいるのは、その故であろう。


これは、非常な精神の諸力を必要とするイマージュで、源氏を読んでいて思うのだが、式部が物語の進行に応じて揺れ動くその細い一筋をまったく踏み外さないでいるのは、じつに呆れるばかりである。柔軟で、繊細で、しかも力強い。


ランボーに「太陽の子の本然の姿」という言葉があるが、光源氏は日本式の太陽の子と言っていいかもしれない。ただ、光源氏は背後に異様な暗さを持った男であるが。