Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 通貨という形而上

※この記事は、少し分かりにくいと思いますので、「資本主義経済」というタグの中の「紙幣という形而上」という記事をご覧頂いて、参考にして頂ければ、幸いです。


一時代前は、通貨と言えば、貴金属だった。つまり、通貨は実質を持った価値を持っていた。国が滅んでも、通貨自身が価値を持つ財産だった。


しかし、資本主義経済の到来によって、その巨大な市場は、金が稀少価値を持つが故の財であることが暴かれ、通貨はその本来の形而上的な姿を露わにした。つまり、どの通貨も信用通貨であることが明らかとなった。金は通貨の地位から放逐された。


国際通貨は不在となり現在、すべての通貨は、国や法人の信用に基づく信用通貨となってしまった。ただ、現代、仮想通貨というものが現れたが、これはネット上の善意の信頼に基づいているものである。これから、どのような生育を見せるか。だが、これはネット上の利便性から登場したものであるから、その誕生歴はあやしく、よく管理されているとは言い難い。利便性というものと信頼性というものを同時に乗せるということは、すこし無理のある通貨のように思えてならない。


だが、話をもとに戻そう。


国際通貨は、先述したように、不在となった。ユーロ通貨が可能なら、国際通貨も不可能ではないのではないか。だが、これは形而上学として不可能である。自己は自己自身によって証明され得ない。国連がそうした機構を作って国際通貨を発行したとして誰がその通貨を買うだろうか。


そもそも、経済は人間社会に必須の生理現象と言ってよい。古代に経済学が成り立たなかったのは、単に、その総体の量が少なかったことに拠ると言ってよいのではないだろうか。従って、金持ちや貧乏人については、それなりの記述がある。


しかし、量の増加は質的な変容を伴わずにはいない。特に、資本主義経済となって、その規模が、桁外れに増加した場合、国際通貨が不在となってしまうような事態を引き起こす。


これは、人間社会にとって、明らかに新しい出来事である。だが、人類は、まだ、その形而上的、また、形而下的な性格について、よく知らないでいるようだ。


(しかしそれでも、国際通貨というものは、世界の人々のためにも、あってもいいものだと考えている。形而上学的には、無理かもしれないが、お金というものは、やはり、どこまで行っても、形而下的な性質を持つものである。誰か良い知恵を持った人は、いないものだろうか。) 


ユーロ通貨はこの国際通貨の不在ということの危機感から、発行されものとも考えていいのではなかろうか。日本と同じくイギリスのような島国は、自然と国というものが存立する条件に恵まれている。だから、この危機意識がない。ユーロ圏に入らなかった所以であろう。