エッセイ きれぎれ草 10
金というもの
金は現代、いつどんなときであっても数字である。そうして数字は魔術と非常に親近性が高いものである。それにしても、こんなに生臭い人間臭い数字はちょっと他には見当たらない。
また、金の魔術的な性格、例えば、1ドルが360円だったり、100円だったり、1億マルクだったりすることを思い合わせてみれば、その魔術的な性格と人間臭さを足して、何とも言いようがない、怪物じみているのにちょっとやそっとでは目を逸らせないような、醜怪であって実に魅力的という、なんとも形容しがたい面貌が出来上がる。
算術で人を狂喜させたり、あるときは、死に至らしめたりする物語が、今昔物語に載っている。
始めはバカにしていた女房たちが、笑い死にするから計算をやめてくれと言うのだが、古来から伝えられた、この数字の魔術を笑ってばかりもいられない。
むしろ、数字に関しては現代の方が、その魔力を活発に働かせているように見える。株価、為替、年俸、ノルマ、偏差値、検診結果、年齢、体重・・・、数え上げればきりがないだろうが、われわれはその実質より、はるかに数字の方に心を動かされている。
それともう一つ。他のあらゆる価値には、もう信を失ってしまっているのに、金の価値だけには、まだ信を失わないでいるという人の多さである。これも実は数字の魔術に、他ならないのであるが。
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詩人は呑兵衛でいい、小説家は小人でいい、ただ、批評家はきちんとしていなくてはいけない。
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