エッセイ きれぎれ草 6
美しく貴重な感情には、礼儀の衣が欠かせない。
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形式は、法則というよりも礼儀に近い。
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俳句の五七五形式、季語は礼儀そのものと言える。
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読書は、レコード針とレコード盤の関係に似ている。
早く読み過ぎても、遅く読み過ぎても何も分からない。
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自然は人間に放心を許したが、社会というものは人間を放心させまいとする。
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人間は、本当の精神の前では、決して自分を偽ることができないものだ。
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哲学が永生の片影でも、本当に見せてくれるものであるなら、あらゆる学問、芸術は空しくはないだろう。
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人を一人理解するというのは、骨の折れる労働である。少なくとも良書を百冊読むことよりも楽な仕事ではない。
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誰の拍手も期待しない芸術家というのは、稀なものである。だからと言って、そのことで、芸術家としての品位が問われるものではない。
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フロイト
世界観を、どのような意味でも、決して現さなかった学者。
初めて、フロイトを読んだときの異様な読後感は、よく覚えている。まるで、本棚の中に奇怪な異物が入り込んで、どのような鑑賞的態度もきっぱりと退けるといった姿勢には、驚かざるを得なかった。
フロイトは自分というものをまるで現さない。学問を根底においた高級な自己表現さえ、フロイトは峻拒している。
それも、是非とも世界観を提示せよと詰め寄る相手に対し、穏やかにその手を振り解くといった趣で、わたしはこのことについて色々なことを考えさせられた。
あらゆるものがあらゆるものと、関係性を持っているという魅力的な美しい世界観にせよ、科学的真理を背景に持つと自負する世界観にせよ、本当のところ、世界とは何であるか誰も知らない。わたしはそういうものを論じようとは思わない・・・・。
こういう人によって無意識心理学が創始されたということは、興味のあることである。
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