エッセイ きれぎれ草 3 <親鸞、ショーペンハウアー他>
歎異抄
たましいの奥底に墨で大書されたような文言
これはどんな人間のたましいにも応ずる
善人だろうが悪人だろうが
「たとへ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも」
「すかされ」という俗語が、肉体的に痛切と言っていいくらいの血の匂いがする
なんという奥深さだろうか
親鸞の手振りや口調まで伝わってくるようだ
歎異抄にはもう一つ美しい言葉がある
「弥陀の本願はひとへに親鸞一人がためなり」
〇
ショーペンハウアー
ただ一つのことが、生涯の最大の関心事であった賢者
道徳的な人生しかけっして認めようとしない、意味に対する強力な腐食剤
模倣者には、けれども毒素のように作用するが
〇
ミレー
驚くほど堅牢なペシミズム
人間には大地という足場しかない
〇
バッハ「音楽の捧げもの」
峻厳で気難しい老人の横顔
けれども、まなざしは上方を向けている
〇
バッハ「カンタータ140番」
幸福の予感への間断のない傾斜
〇
ガンジーの目
底深い淵から謎めいた光がさしているようだ
〇
ベルクソン「時間と自由」
肉体の精妙な動きに則って抽象語を操る理の達人
時に、 抽象語さえ美しく肉化された、詩となる
〇
ランボー
「彼の目は私(ドラエー)がこれまでに出会った人の中で最も美しい目をしていた」
その頃の彼の写真を見ると不思議な思いに駆られる。一見、夢遊病者の眼のようでありながら、実在は確実にあますことなく捉えている。いや、捉えられ過ぎている。そうして、嫌悪するようにその対象から顔をやや背け、いわば、頑丈な実在と絶妙な距離をたもっている。ざんばら髪と堅牢なあごは、正しく詩人というより行動家のそれだ。
文学とは白日の元に晒された夢の中で美しい愚行を演じることに他ならない。なんと、無邪気極まる男であるか。
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