Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

タバコの常識と功罪 <当り前なあまりにも当り前な>

閑話休題


あまりに、当たり前なこと過ぎるので、閑話休題として書かせて頂くことにしたい。


まず、現今、タバコの受動喫煙の害というものが取り沙汰されている。ある統計(統計というのは、実は、たいへん恣意的なものなのだが)の推計によるとほぼ1万5千人が肺ガンになるリスクを負っていると言う。


それで、もしそうであるならば、何故、国は、ガソリン車やディーゼル車等の排気ガスによる健康被害のリスクの推計を取らないのであろうか。


タバコの煙は、受動喫煙によってでは、罪としては、頭が痛いなるくらいなもので、死ぬことなどはまずあり得ない話なのだが、自動車等の出す排気ガスは、ご存知の通り、人が死んでしまうほどの有害物質である。(ちなみに、タバコの煙に含まれている物質の中で、唯一、タバコだけに含まれている成分はニコチンだけで、残りは、すべて現在の外気の中に存在する。)


北国では、自動車が雪に埋もれて、排気口が塞がれ、その車に乗っていた人が死んでしまったという痛ましい事故が起きている。排気ガスはそれほどの有害物質である。それほどのものなのだが、今の技術は相当なもので、黒い煙を透明に近い色にして隠している。


こうした排気ガスによる健康被害の実情は、圧倒的であって、特に都市部に住んでいる交通量の多い人々の肺は、皆、排気ガスによる塵やほこりで、黒く汚れているのが、医療関係者の間での常識である。石原慎太郎が都庁の中で、「あなた方、こんなものを吸っているんですよ!」とぶちまけていた、あの黒い汚染物質の塵である。


タバコは、元々、インディアン(インディカ)の宗教儀礼の際の神聖なスモークとして用いられて来たものである。宗教には、例えば、仏教には抹香臭さ、キリスト教にはバター臭さ、イスラーム教にはオイル臭さというように、匂いが付き纏うものである。因みに、宗教ではない儒教には、そうした匂いはないのはご存知のことと思う。


つまり、タバコの、あの吸わない人にも、また、吸う人さえも困惑させる独特のにおいは、インディカの伝統的な宗教の匂いに他ならないのである。今でも、インディカの間では、タバコの煙が充満した大きなテントのようなものの中に何人も入って、神や他の何か神聖なものを求めるという風習が残っている。そのときは、勿論、今で言う、受動喫煙となる。また、タバコのいわゆる、ヤニ(タール)やニコチンは水溶性であるから、壁などに付いたとしても、簡単に水だけで落ちるものである、


ニコチンは、じつに不思議な作用をする成分で、起きた時の目覚めの一服にも、寝る際の気を鎮める一服にも両方に効用がある。こんな正反対の効果を一つの物質でやってのけてしまう物質は他に見当たらない。本当に、摩訶不思議な物質なのである。インディカが神聖視して、宗教儀礼に取り入れたのもそのためなのだろう。


タバコの匂いに敏感な人は、だから、むしろ宗教的なものについての敏感な感性の持ち主と言って良いのかもしれない。


そうして、たとえば、外科医のような極めて繊細な技術を求められるような、あるいは極めて複雑な構造の機器を扱う仕事の人々などが、1本のタバコさえあれば済むところを、厳格なタバコ規制の法律によって、1mmほどの(いや、今ではミクロン単位であろう)誤差でメスを入れたり、機器を操縦するのを、誤ったりする場合、助かるはずの命が救えなくなってしまったり、たいへんな大事故に繋がる危険性があるという現今の状況は、嘆かわしい事態と言わねばなるまい。


昔は、病院やどこにでも、ロビーや至る所に、ちゃんと灰皿が備えられていて、外科医などの人たちは、そこで一服して気を鎮め、重大な手術の場合は、手の震えを抑えるため、寛ぎながらタバコを味わい、それから、難しい手術に挑んだものである。


現在では、滑稽なことに、未だに真っ黒い排気ガスを噴出して横来するダンプカーの横を、通学途中の小学生たちの列が通るのを、子供たちの保護者達は何も言わないのに、大人がタバコを吸っていると、はた迷惑そうに手をパタパタさせたり、空咳をしたり、子供たちを近づけさせないように、細心の注意を払っている。


こうした光景を見ていると、まるで、インディカの宗教に毒されることを恐れているような具合にも見えてくる。


 ※ちなみに、実証精神が豊かな国アメリカは、タバコ規制の発祥の地であるにも関わら   
  ず、タバコを規制する条約には、入っていない。タバコと肺ガンとの因果関係は未だ 
  にまるで実証されていないからである。(発ガン性物質は、焼き魚のお焦げからさ
  え、発見されているのであるから、当然と言えば、当然であろう。)