Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ シェイクスピアとドストエフスキー <試論4>

シェイクスピアの四大悲劇と呼ばれるものに、ドストエフスキーの諸作品を照らし合わせることは、よく為されることであるが、改めて、ここで照合してみたい。


「ハムレット」は「罪と罰」、「リア王」は「白痴」、「マクベス」は「悪霊」、「オセロー」は「カラマーゾフの兄弟」という具合で、確かに、これで間違いないところであるが、ドストエフスキーのもう一つの、習作的な長編小説「未成年」などは、言わば、ドストエフスキー独自の、楽屋的な小説と見て宜しかろう。


じつは、わたしがシェイクスピアを本気で読み出そうと思ったのは、ドストエフスキーが、その諸作品の中で、シェイクスピアのことを、まるで、教養として読まれていることを、当たり前な前提として書いている箇所が、多くあったからである。


「悪霊」では、スタブローギンを指して、彼の母が「ヘンリー4世」のハル王子になぞらえて、擁護しているところとか、「カラマーゾフの兄弟」では、ドミートリィーの性格を弁護するときに、オセローは嫉妬漢ではない、という言葉が出てくるし、また、これは、シェイクピアではないが、「死の家の記録」では、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を知っていて、当然という書き方が為されている箇所がある。


「地下室の手記」では、青年貴族たちが、シェイクスピアは永遠だ、われわれはシェイクスピアを顕彰して止まないと、その談話の最中に持ち上げ、それを聞いていた仲間外れとなっている主人公が、君たちは、一体、本当にシェイクスピアの本領というものを知っているのかね、という具合に高笑いをして、その場を、一気に、白けさせるという、何とも言えないような場面とか。


ドストエフスキーの生きていた時代の貴族たちは、かなり教養が高い人々だったことを思わせるものがあり、ドストエフスキー自身も、その時代の空気の中で、作品を制作していたことを思い合わせれば、ドストエフスキーの置かれていた知的環境は、とても高かったと言って良い。晩年の「おとなしい女」では、登場人物の会話の中で、ゲーテの「ファウスト」からの、引用さえある。


また、ロシアの貴族たちが、高い金を出して作り上げたエルミタージュ美術館は、西欧諸国の絵画の一流の名品が揃っている美術館であり、ロシアの貴族たちの芸術鑑賞眼が、けして、狂いのなかったものであることも、証しているのである。


その中で、あのドストエフスキーの数々の名作が生まれたことをかんがえると、それらを生み出すに足る、時代の空気というものも、同時に、思わざるを得ないものがある。


<続く>