Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 理系、文系、そして体育系 <タイプについて>

ユングは人間のタイプとして、まず、外向性、内向性と大きく二つに分け、その上で、理性、感情、感覚、直感という性格が、相互的に補い合うというタイプ論を、その著作の中で、打ち出した。


そうして、ユングは自分のかんがえたこれら人間のタイプは、けっして、絶対のものではなく、他に様々なタイプ論が可能であろうとも、断ってもいる。


現在の日本を見渡してみて、おもしろいと思うのは、ひとまず、理系と文系というタイプに、人々を分けることが、便宜上、とても有効であると思えることである。


この日本でよく言われる、人間の分け方は、とても、プラグマチックな、つまり、実用的なもので、企業側の要請によって、学内の学生を、理系の人間、文系の人間と分けたことから、由来する。


では、その前は、どうであったかというと、商いにおいては、全的な人間の力がものを言ったのである。基本的な能力としては、読み書き算盤であり、その上での、人間性というものが、問われたと言って良い。


つまり、理系文系というような人間観は、物理学などが輸入されることとなった、明治期以来の産物であって、まったく新来の人間についてのタイプ観であった。


この新型のタイプに、日本人は、いかにもきれいに納まったのである。これは、わたしには、どうしてまた、こんなことが可能であったのかと問いたくなるような出来事でも、ある。


私事で、恐縮だが、わたしは高校二年生までは、どちらかというと理系の科目の方が得意な生徒だった。


よく、覚えているのだが、数ⅡBの授業で、「数学的帰納法」という単元になったとき、それに、躓いてしまったのである。ある大学院の数学科を出た人に聞いてみたところ、あの単元を乗り越えるために、丸一日考え込んだものですと言われたもので、わたしは、あのとき、数時間かんがえただけで、諦めてしまったことを思い出し、自分の忍耐力の無さを恥じたものだった。


そして、そのときに、もう一つ難点だったのは、自分流の「確かめ算」というものができなかったことにも、拠っていた。


この「確かめ算」というのは、中学時代、塾に通わされていたときに、自己流で思いついたもので、わたしは自分の計算が、確かなものかどうか、言わば、自分の腹まで下りて行って、はっきりとこれは確実だと思えないと、先に進めない性格なのである。


これは、しっかりとした確かな計算かどうか、見極め切れないと、次の課題に取りかかれないのである。


こういうことをしていたから、おそらく、その数学科を出た人と比べて、その単元を理解するのに、その二倍は時間が掛かったろうと、もし、乗り越えられていたらであるが、思ったものだった。


そうして、このわたしの「確かめ算」という思考法は、今でも続いていて、自分の腹にまで下りて、その思考が、確実かどうか確かめるというやり方は、未だに、変わりなく続けているものでもある。


そうして思うのだが、わたしは、現在まったく、文系タイプの、情を重んじる人間である。これは、ドストエフスキーや小林秀雄の本に心を奪われたことにも、拠るが、それらの本を読む前、わたしが理系文系で迷っていたときに、もし、理系の道に進んだら、情の薄い面白味のない人間になってしまうだろうなと、漠然と思っていたことにも、拠っている。


だが、話がまったく、私事になってしまった。日本人が、理系文系のタイプにすっぽりと納まってしまった話に戻そう。


ある大学で、理系文系の垣根など無くそうという運動が起こり、学長が率先して、横断的な学問ということで、理系文系の枠を超えて学問するという考えを打ち出したのだが、結局、その学長は、その任期の最後に、理系文系という垣根はどうしても越えられないと思い知ることであったと、嘆息しながら言ったものであった。


このことは、何を語っているのか。


一方で思うに、日本人は擦り合わせというものが、得意な民族である。例えば、ハイブリッド車という自動車があるが、このような複雑な構造を持つ車は、海外では作れないものだと言う。


何故かというと、ハイブリッド車というものは、構造上、機械部門と電気部門とが、精密に組み上げられなければ、うまく行かないもので、日本の企業では、一社の中でそれらの部門を、擦り合わせ組み上げることが可能なのだが、外国のように部門ごとに、組合などが分かれていると、部門同士の争いが起きてしまい、精密に組み上げること、そのものが出来ないのである。


これは、理系の枠内でのことだが、他にも、リチウムイオン電池が+極は無機物、-極は有機物でできていて、これは日本人が-極に有機物を持ってくることで、完成した技術だと知ると、ある可能性のようなものが見えてくるように思えるのである。


世の中の、理系、文系の枠を取り外すというような、大きな事業は、ひとまず置くとしても、一人の人間として、情理を兼ね備えるということは、けして、無理な注文でないどころか、むしろ、人間として成熟するときに、必要不可欠な条件である。


理性のみ、感情のみの人間の方が、どうかしていると言い得ることだろう。そして、わたしは、それに加えて、体育系をタイプとして上げた。


若いとき、それから、多くの人に訴えかけるとき、体力や肉体の動きというものは、たいへん重要な要素となる。


一流のスポーツ選手になると、身体の動きだけで、人を深く感動させたり、ときには、それを見る人の考えを根本から、変革したり、またときには、救ったりさえする。


けして、蔑ろにしてよいタイプではない。では、なぜ、今までタイプの中に加えられなかったのか、肉体は、今までの学問の中では、精神には及ばないものとして、遇されるものだったから、としか言いようがないもののようである。


肉体というものが、如何に、精神そのものと、切っても切り離せない関係にあるか。肉体を、その最上の意味合いで、掴み直すということ。これは、今日的な、喫緊の課題と言っても、良いものなのかも知れない。