Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ マスコミというもの <安倍氏国葬>

わたしは、マスコミという言葉が嫌いである。抑も、正確な英語ではないし、和製英語でも低級な部類に属することばである。


だからと言っても、良いであろうか。この言葉を表題に掲げる気になった。


話は変わるが、わたしの知り合いで、冬になると危険を冒してでも、冬山に行くという年配の女性がいるのだが、彼女に、その理由を尋ねてみると、「冬山の雪の深いところを歩いていると生きてるう、と感じるのよ。と言うか、わたしの生きがいなのよ。」ということだった。


そこで、マスコミに携わっている人々の、その生きがいというものをかんがえてみたい。日本のマスコミは、大略、政権批判をするということが、常道になってしまっているが、これは、先の大戦からの根強い反発から来ている。敢えて、反省とは言わない。反省なら、もっと柔軟な態度や思考があって、しかるべきである。


この硬直した批判姿勢は、マスコミの言わば、宿業とでも言うべきもので、先に紹介した女性の呆れはするが、屈託のない生きがいとは、ずいぶんと値打ちの下がる生きがいであろう。マスコミという言葉を使った所以である。


眉根を寄せて、いかにも利口そうに発言したり、議論し合っているが、じっさい、自分の考えを自分の言葉で、ほんとうに語っている、そうした人が、一体何人いるというのだろうか。彼らは考えているのではなく、正確に言えば、政権と世論の間で、計算しているだけである。


その計算に乗っかる世人のまたいかにも多いことか。ただ、世にもっとも多いのは、そうした反省を欠いた俗人であることは、昔も今も変わりはしないが。


国葬が、世論を二分しているという、これが、抑も、マスコミ自身が作り出した事そのものである。振り返るときは来るが、俗人は、常ながら反省を欠く人々である。


単独犯の訳の分からぬ論を、土台としているようでは、どの論も、滑稽そのものである。なぜ、いきなり、銃弾で殺された安倍氏の心持ちを想像しようとはしないのか。そうしたことは、手間の掛かる事柄に、属するからである。


こんな為体で、誰が、フェイクニュースを非難できようか。