エッセイ きれぎれ草 98 <不信>
政治不信
自分自身も信じられないような人間が、どうして、政治ならびに政治家を信じることができようか。
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人間不信
人は信じない方が、自分には都合が良いと思っている人間が、現代いかに多いことか。不信とは、思想に結びついてるのではなく、単なる、ご都合主義である。
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「わたしは、現代の子、不信と懐疑の子です。」とドストエフスキーは自分を規定した。ドストエフスキー並みの人間観を持っていれば、その言葉も生きてくるだろうが、物まねをすれば、単なるポーズに過ぎなくなる。
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宣長は、物知り人の特性として、何も信じようとしない態度を挙げている。何かを、信じたという時点で、滑稽なことになるそうなのである。儒者も知識人も、この点で、昔からなんら変わらない者のようである。
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信は、精神の力を必要とするが、不信には、何の精神的な諸力もいらない。楽だということで、不信を公言する人もいるし、そちらの方が、むしろ、数が多い。
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世界平和
自分の心一心さえ、不信に塗れて、平和にすることができず、どうして、世界の平和を祈ることができようか。
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